1時半より対談開始 一時間ほどお話いただいたあと、休憩 3時半終了の予定 その後質疑応答 ミス・ハラウェイ…「サイボーグ・フェミニズム」を 執筆したダナ・ハラウェイを意識した命名と思われる。 デカルトの愛娘を模した人形、フランシーヌは、 瀬名氏の「デカルトの密室」にでてくる どのくらいサイボーグ化しているか? 先ほどのイノセンスのシーンで、 登場人物の息が、白かったり白くなかったりする。 これは押井監督の意図のもので、 バトーは息が白くなく、 トグサは息が白い。 ハラウェイは息が白いのか、それともタバコなのか分からない。 最後のシーンでハラウェイの顔が割れるところで、 観客は初めてハラウェイの義体化率の高さを知る。 デカルトの愛娘を模した人形、フランシーヌは、実際に存在したかは実は疑わしく、いわば伝説である。 フランシーヌは、デカルトの船旅の途中海が荒れたときに、 「からくりサーカス」にもでてきた名前。 瀬名氏の著作「デカルトの密室」で、主人公の研究者はロボット“ケンイチ”を育てていく。 フランシーヌは、自分が心を持っているか分からず、 他人が心を持っていることも理解できない病気にかかっている。 そこで、フランシーヌは、相手の表層を見ることで 相手が心を持っているかどうかを判断しようとする。 ケンイチは人間のように育てられたロボットだが、 フランシーヌはその逆として描写されている。 ◆チューリングテスト 「メンチェルのチェスプレイヤー」では、読者は最後にケンイチがロボットであることを知る。 読んでいる最中は、ケンイチも裕輔も一人称が「僕」なので、 読者はどちらがどちらか分からない。 チューリングテストは、数学者のチューリングが開発した、コンピュータと人を比べる手法。 ただ、実際はチューリングは男と女の差異を 区別する方法として開発されたと言われている。 チューリングの死に様は不思議なものであった。 テストが発表されたのは1950年頃。 要旨としては、 知能を判断するには 対象の表層、とくに言語機能だけを見れば十分である ということ。 櫻井氏脚本の「ささやかな反乱」でも チューリングテストがネタに使われている。 あらすじ: ガイノイドと主人公の男が、恋愛映画中の引用で会話を成立させる。 ただ、その事実は観客には最後まで伏せられていて、 一見ロボットが非常に“人間らしく”振舞っているように見える。 主人公の男は、引用だけでの会話を成り立たせて 満足なのか? 何がしたいのか。 そのシチュエーションを(外見上)揃えるところに 意味を見出している。 映画の会話自体はコピーされているが、 それに何らかの意味を付与している。 コピーが、オリジナルという側面を持っている。 「デカルトの密室」では、チューリングテストの逆 ─すなわち “どれだけ機械らしいか”を判断することが行われていた。 そうやって順列をつけることは、 逆から見ればやはり “どれだけ人間らしいか(機械らしくないか)” という判断になる。 わざとスペリングミスをして質問したとき、 コンピュータがどう応答するか、というテストもある。 スペルミスをスペルミスとして判断するプログラムを組めば それはスペルミスとして判断されるが、 フランシーヌは、自身を機械的に見せるため、 アリスから引用することを決めた。 しかし、その “アリス”という選択自体が実はとても人間的で、 「スノッブ」である。 瀬名さんはそのシーンですごく悩み、 書いている最中は自身がコンピュータになったような 気分になったという。 ◆機械たちの時間 攻殻機動隊のTVアニメに出てくる 人工知能を積んだ戦車“タチコマ”は、 「並列化」という処理をされ、 個性を持っていないはずだったが、 バトーという登場人物が 自身の使う機を特定したことで、 それぞれがだんだん個性を持ち始めた。 そのうち、家出をするような話もある。 全部コピーだったはずのものが オリジナルになってくる、という発想。 その、微妙な差… どうやって差をつけたのだろう? 櫻井氏は脚本時、並行して論文を書いており、 いくつか脚本として表現したいことがあった。 タチコマは、自身が蜘蛛みたいなかたちをしていたから 不気味の谷で言う「ロボット」に近いほうとして 判断され、 「ロボットらしいから気持ちわるがられないんだ」 ということを自覚していたから、 「人間らしくなってきたから(自身が谷のところに行ってしまって) 人間に嫌われるんじゃないか」 と考えた。 ◆声の文化と文字の文化  (ウォルター・J. オング) 会話の「コピー」としての文字が表れたことで、 「文体」が表れ、 会話自体が「書き言葉的」に変容した、と主張。 我々も、しゃべるときに文字を思い浮かべることがある。 瀬名氏が作家になりたてのとき、 編集者との打ち合わせで 担当している先生の名前を聞いたとき、 「やまだまさきさんをたんとうしてますよ」 と言われても、 実際には山田さんの著作を読んでいるのに 声で聞くとそれと理解できないときがあった。 文字と言葉が一致しなかった。 普段から話に出てきていれば、 かっちり一致していたかもしれない。 ◆不気味の谷 何が不気味なの? 本当に不気味の谷ってあるんだろうか? ロボットをだんだん人に近づけていったとき、 谷が現れるんだろうか。 櫻井: ここまで谷が表れることはない。 ロボット(ヒューマノイド)との接触頻度にもよるかもしれない。 慣れによって解決できるかも? 不気味の谷には2種類ある。 ・死体(動いていない) ・ゾンビ(動いている) 動いているほうがもっと怖い。 ・人形(動いていない) ・ガイノイド(動いている) 現在瀬名氏が執筆を進めている作品では、 「違和感」がキーワードになっている。 ロボットと人間を、不気味の谷の図のように リニアに繋がる存在に仕立て上げているのは、 実はフェイクではないか。 (ロボットと人間は所詮違うもので、間をとることはできない) ロボットと人間のCGをモーフィングで 変化させていったとき、 ロボット何%で気持ち悪いか、なんてことは判断できない。 ◆家族的類似性 コップとお皿は、それぞれが別だということは認識できる。 ただ、二つは容器という共通点を持っている。 モーフィングでつなげると、 どこまでを皿と呼んでいいか どこからがコップなのかは… 微妙で判断がつかない。 コップとお皿の合間は不気味じゃない。 人間とロボットで考えた不気味の谷で、 谷が不気味だったのは、 モーフィングの一方が「自身」だったから、という考え方がある。 コップとお皿は客体化できるが、 ロボットと人間だと、 自身がどこまで他人か、に近い判断になる。 人間というカテゴリーが一翼にあるから気持ち悪いのだ。 だから、ロボットと人間の不気味の谷の原因は、 「主体」が深く絡んでいる。 ◆デカルトの密室  ロボットが人間のふりをして小説を書いたり  人間がロボットのふりをする …ただ、それは文筆作品であるからこそできること。 櫻井氏の係わっているアニメーション (ビジュアルが加わる)ではできない工夫。 (叙述トリック。) ビジュアルが加わるアニメでは、中身が人間かどうか、ということで チューリングテストを行っているが、 小説では、 外界とのやり取りからしかロボットかどうかを判断できない点を 利用したチューリングテストを行っている。 読者自身がチューリングテストの登場人物になる効果があった。 ◆機械たちの時間 個性を持ち始めたきっかけは、天然オイル。 (外部からの注入でオリジナルが生まれた。) 櫻井氏の作品は、 原作の士郎政宗氏の作品のある意味コピーである。 士郎政宗作品では、 普通のSFモノ(競って違う形の機体が現れる)と違って すべてのタチコマ(フチコマ)が並列化されていて 同じ中身と外見を持っていた。 アニメーションはさまざまな人の手を経て生まれる。 タチコマの個性の表現は、 脚本上でウェイトの指定はするものの 実際には声優の技量によって決まったりする。 日本版では、タチコマ役の声優は一人。 海外版では、タチコマ役の声優が四人。 ・本好き ・とろそうなの ・普通なの ・ というような大まかな分類があった。 ◆ゴースト タチコマは設定上ゴーストを持っていなかった。 ゴーストが、機械と人間を分ける根拠になっている。 (映画イノセンスや攻殻機動隊の世界観) ◆The Ghost in the Machine ↓ A. Kestler ↓ ギルバートライル ライルは、ゴーストという言葉を初めて用いながら 実は否定的なニュアンスだった。 (機械に対するゴースト、という考え方がでてきたけど、実際どうなのよ、という立場。) 士郎政宗氏原作では、 さまざまな解釈が可能。 女の子: タチコマ、あんたにはゴーストはないんだよね? タチコマ: ないよ。 女の子: それってどんな気分? タチコマ: べつに、ふつうだよ。 君は? 女の子: べつに、ふつう。 (“攻殻機動隊プロダクションノート”より) 設定として決められていて、 登場人物たちは、それがどういうことなのか認識できない。 登場人物にとってはア・プリオリに決められている。 ◆The Ghost in the Shell (原作) ◆Ghost in the Shell (押井映画版) ケストラーの原著タイトルは ◆The Ghost in the Machine 「ゴースト」という概念は、 人体の機械化、 機械と人体の差異がなくなっていったとき 要求されるもの。 ◆The Ghost in the Machine 時代背景として、 機械によって世界をすべて記述可能かもしれない、と いう考え方がでてきた頃だった。 ゴーストという概念は、そんな時代に心理的に要請された、 「宗教的」なものだった。 ケンイチくんシリーズ 「第九の日」(配布プリ最後に広告あり) クリプキが、 固有名は、指示語に還元しえない、 と主張した。 あるものに名前が与えられていたとき、 (「瀬名さん」) その要素を分解していくと… (「小説家」「特任教授」…) けっきょく、すべてを記述しようとしても 記述し得ないものが残る。 書き下そうと思っても書き下せない何か。 ◆恋愛の不可能性 好き、という気持ちの根源に何があるか 知ろうとしてその気持ちを要素に分解していっても、 実は、その要素を逆に再構成しても 元には戻らない。 オリジナルとしての固有な気持ちが、 要素=部分コピーの集合には集約できない。 ◆チェスプレイヤー 「ディープブルー」 97年、人間のチャンピオンを破った。 チェスができたからといって、その先があるわけではない… 実現に向かっているときは、 知能を体現するものとしてディープブルーを捉えていたのに、 実際にそれが人に勝ったとき 何だか急に冷める。 やっぱり知能だとは思えないや、という感想を得て終わる。 何を知能と呼ぶか、は 時代時代によって違う。 デカルトの時代、 「人間機械論」が台頭してきていた。 人間を機械的な要素に還元できる 人間は機械かもしれない、という恐怖… では、人間が人間たりうるのはなぜか。 そこで、神に与えられたものとして心が主張され、 心身二元論が 人間機械論に対峙するものとして表れた。 人間と機械の境界があいまいになってきた今、 それに対抗するために出てきた概念が ゴースト、かも知れない。 人間がどこまで機械なのか─ 機械がどこまで人間なのか─ タチコマというAIを積んだロボットは、 人間的な目を持っているために 人間的に見えたりする。 バトーは目が人間的でないから 人間的に見えなかったりもする。 ◆ ひろ松渉(漢字が出ません)