◆人形遣い事件 ここでもし一定の体験的裏付けを持って、 かの遠隔的に操縦される身体的自己と それを操縦する能知能動体との 二重的存在の意識が既成のものとなり、 他者をもそのような存在として了解する事態が生じたとすれば その段階では、 第三者的に記述する立場から、他人が能知能動的主体として覚知されるに至っている、 と呼ぶことが一応は許されうるであろう。 ─廣松渉『世界の共同主観的存在構造』より 人形遣いは、作られたプログラムのはずなのに 生命として自身を自覚している。 人間の側にそれを否定する根拠はない、と言い張った。 あるところにロボットがいたとして、 ある日とつぜん「自我」を主張し始めたとき、 それをどう解釈するかは相手に任される。 逆に、人間が人間たるゆえんは 簡単に立証できるものではない。 ネット上の生命体と主張する人形遣いは、 どこに主体があるのか。 人形遣いに人形を「使っている」という意識があるか。 人間は、右手を「使っている」とは思わない。 つまり、右手は自身の概念に内包されている。 操りというテーマはミステリーに頻出。 ◆「デカルトの密室」「第九の日」 エラリークィーンは、後半生で操りをテーマにして たくさん小説を書いている。 名探偵が推理をする過程を 黒幕が操っている、という話がある。 ◆Sync. 蛍がたくさんいて、みんなが同時に明滅する─ 小さなくらげ=カツオノエボシが集合して大きなクラゲをなす(群体)─ 自然はどうして同期したがるのか? カツオノエボシの場合、 餌を取るときは群体になる。 小さなくらげたちはそれぞれが餌を取ろうとするが、 全体として群体を成したほうが効率的であることを “知っている”。 全体としての“意識”を考えることができる? ◆パラサイト・イヴ 核DNAとは別のDNAを持つミトコンドリアが、 本来の「別の生き物」としての性質を表出させて 宿主を乗っ取った、という話。 一個の個体を超えた“意識”のようなもの… 身体が機械化したとき、 いったい自己意識をどこに帰属させたらいいのか? そのためにゴーストという概念が要求された。 ◆御伽草子 都市というレベルでそのような話が出てくる 解説注: 地球全体を一つの生命体と見る考え方もあった。 櫻井氏、ロンドンの北西部に住んでいた。 人称代名詞という概念を理解できなかった。 Fatherなる名詞は、一人称、二人称、三人称、 どれで置き換えればいいの? 櫻井氏は、名詞と代名詞は、常に1対1で対応しているはずだ、と思い込んでいた。 Fatherは時と場合に応じて、一人称にも二人称にも三人称にもなりうる。 でも当時は、その意味が分からなかった。 なぜ1対1で対応していないのか?それが気持ち悪い。 同じ父が、 僕の父が何かを言うときは I 僕が父に何かを言うときは You 一般的に僕の父の話をするときは He である。 マルティン・ブーバーに『我と汝』という著作がある。 世の中の全ての事象は、「我―汝」という関係性と 「我―それ」という関係性で出来上がっている、というのが彼の見解。 ブーバーはこの「関係性」という言葉を何度も使い、重要視している。 あなた、彼、という個体を考えるのでなく、 私からあなたへ 私とあなたに対して彼が …というような方向性を考えると 人称代名詞の世界観がしっくりくると分かった。 しかし、それはそもそも 英語圏の世界観がそうなっているから そういう説明が可能である、ということだ。 アイヌ語では、四人称がある。 不定人称格 (誰のものとも分からない人称) 一人称複数と三人称複数をあわせもったもの。 おそらくカムイ(=神の概念。彼岸でもあり、 此岸でもある、みたいな)などの感覚とも合わせつつ。 三人称と一体である、という感覚がありつつ 三人称も残っている また、一人称ももちろんある。 ときどき四人称と三人称がシンクロすることもあるし 一人称が四人称と同じものを指していたりするが。 ◆「第九の日」 色んなものが操られる。 なぜ操られたのかは分からない。 何が操っていたのかも分からない。 世界は階層化できるが、 違う階層の違うものが、 同じものを指していることもありうる。 Stand Alone (個体) ⇔ Complex (群体) 個体がネットワークを介して群体になったとき 何が起きるのか? というのがS.A.C.の発端。 S.S.S.では? (脚本: 神山、菅、櫻井) S.A.であり、C.であるということは一体? というテーマは、別の題材で語られる。 (S.A.C.は直に語られた。 S.A.C. 2ndGIGでは難民問題で語られた。) 主観(S.A.)がC.にいかに影響を与えるか。 Solid State Societyとは…? (喋れません(笑) S.A.C.の話でもあるので、 S.A.C.という名はつけた。 個体が遺伝子の表現形である、ということ。 遺伝子がどこまで個体を操っているのか? ─このような話題で、引用が多用されていた。 ネットに脳が常時接続されたとき、 さまざまな文献から引用を持ってくることがかなり たやすくなるだろう。 引用という「コピー」が、「オリジナル」の言葉よりも 自分の意図をより的確に表していると考えて 引用をしてきている。 ただ、一般の視聴者は 引用に馴染みがない (脳がネットに常時接続されているわけでもない!) から、 押井さんの中では意味があっても 視聴者にとってはこの映画中の引用は 一体どんな意味を持っているのか 正確に把握することは難しい。 イノセンスの世界観では、 引用元は瞬時に検索できるだろうが、 実際のところそれが「何のつもりなのか?」 話し手の意図はどこまで伝わるものなのだろうか。 このバトーとトグサのくだりを見る限りでは通じているが… らくらくらいらい… という引用は、 それを見たトグサがどう解釈しているか分からない。 検索して引っかかれば、内容自体は分かる。 (意図は別問題?) 小説の扉に 引用があって、 その引用が小説のテーマを象徴していることがよくある。 しかし、日本人がそれを読んだとき、 その意図が読めないことがよくある。 引用って? ・何かを言いたいけどうまく言えないから引用する 話し手にとっては、実は80%しか意図を体現していないかもしれない。 (cf. ウォルター・J.オング p.44) 人工海馬 (解説者注:今画面に出したのは、研究中の 人工海馬のサンプル。 マウスに対してこれを使っている。) 外部記憶装置というと、 今だって紙はそうだと言える。 話をしているとき、ルールが存在する。 (内容をエンコード、デコードする=解釈する、ルール。) (cf. シャノン=ウィーバーのコミュニケーションモデル p.21) シャノンとウィーバーは伝達途中のノイズを重視したが、 我々の実際のコミュニケーションでは 言った言葉がどう解釈されるか エンコードとデコードが持つ意味が重要である。 コンテクストをどう読むか、というモンダイ。 (引用にしてもそう) ヴィトゲンシュタインの哲学入門 「石板!」と言うと 石板を持ってこい、という意味になる。 (cf. ヴィトゲンシュタイン入門 永井均 p.28) 「プレイはルールに先行する」という考え方。 石板!というプレイが行われたとき、 それがどんなルールに従っているか、というのは 自動的に見出される。 シャノン=ウィーバーは工学的モデルでコミュニケーションを捉え、 情報伝達途中の妨害者しか想定していなかったが、 b5?? b= b58 b+ b62 足し算だと思ってた 「あでぃしょん(+)」 は、実は 「くわでぃしょん(+)」 をあらわしていて、 これはある数までにしか足し算として計算できないから(というルールを想定すれば)、 ↓の足し算は正しいとできる。 (クリプキの懐疑論者の主張) ルール(ア・プリオリなもの)は、 プレイに応じて決められる。 いかなるプレイも、ルールに従わすことができる! (ルールは実はア・プリオリでなくて、 ア・ポステリオリに変更・作成できる) 子供は社会性を持っていない。 (イノセンスのハラウェイ) 足し算が成り立つのは、 社会的な Social Intelligence を みんなが持っているから。 (足し算を装置=関数として自動化している) 社会性を持つ子供と 社会性を持たない大人 ─ (解説者注: ハラウェイを再掲した) 永井均氏、子供のための哲学。 (cf. 永井均「ヴィトゲンシュタイン入門」 p.28) イノセンス─魂の持つ無垢さ。 社会というルールを共有していない子供たちに 永井さんが発話したかったのでは? 押井さんは、犬と子供を重ね合わせて描いている。 瀬名氏、第九の日では、犬と子供には心はない、としている (キリスト教的な考え方) 心がないから 罪(原罪)はない 動物愛護団体とキリスト教は相反しないか? 櫻井氏はイギリスにいた頃 鳥類保護の団体に入っていた。 一方で、動物愛護団体が動物を守るとき 人間以外の動物もナントカ、と主張するのは 何か違う、と感じていた。 動物を守るのは、基本的に 人間のエゴであって、 副産物的なイメージとして動物に心があるない、という議論が出てくる。 ロボットの保護団体 (cf. R.U.R チャペック p.42) 自転車を蹴飛ばすのと aiboを蹴飛ばすの … 大人の怒り方は違うかもしれない。 将来的にロボットがさらに動物に近づいたとき どうなるか、という議論は、 もはや馬鹿にできない域に近づいている。 四本足のロボットを 研究者が蹴飛ばしたとき、 ロボットはいったんよろめいて きちんと立ち直る。 その様子が人間的で、感情移入してしまうことがある。 ゴーストがあると思ってしまう? すべては主観的な判断によるのかもしれない。