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“Neuroethics”というコトバ

独立行政法人科学技術振興機構 社会技術研究開発センター

「脳科学と社会」研究開発領域 研究員

福士 珠美

最近になって、Neuroethics (ニューロエシックスとカタカナで表記されることもあります)というコトバが、脳科学の世界でよく聞かれるようになりました。世界的には21世紀に入ってからこのトピックに関連した国際会議が何度か開かれており、日本でも2005年からワークショップや学会シンポジウムが始まっています。昨年のNHKスペシャルやこのサイトSCI(サイ)でも立花隆先生がNeuroethicsについて取り上げてくださっています。3月13日に設立されたばかりの「脳を活かす研究会」においても、Neuroethicsは大きな課題のひとつとして設立背景の中に紹介されています (http://www.cns.atr.jp/nou-ikasu/index.html)。

では、そもそも、Neuroethicsという用語はいつ頃生まれて、どのような学問研究分野なのでしょうか?日本語訳としては、どんな言葉が適切なのでしょうか?

Neuroethics というコトバは、最近翻訳出版されたMichael S. Gazzaniaの著書「脳のなかの倫理」(原題 The Ethical Brain)の前書きにおいて、次のように紹介されました。「『ニューヨークタイムズ』紙のコラムニスト、ウィリアム・サファイアが「神経倫理学(Neuroethics)」という新語を作り、「人間の脳を治療することや、脳を強化することの是非を論じる哲学の一分野」と定義した」と1)

実は、Neuroethics という言葉は2003年よりも以前から、脳科学と倫理の間の問題、そしてその重要性に気がつき始めた人たちによって語られてきました。Neuroethicsという用語の定義にウィリアム・サファイアが大きな役割を果たしたことは疑いようのない事実であり、またNeuroethicsをという用語を専門家集団以外に初めて紹介し、大衆に広めたことも彼の功績ですが、その陰にはこんな歴史があるのです。

PubMedという、学術論文の検索サイトでNeuroethicsと入力してヒットする文献は2006年3月14日現在31件あります。その中で一番古いものは1993年にハーバード大学医学部のPontiusという研究者が書いたものです4)。では、彼がNeuroethicsを創り出したのでしょうか?

Neuroethics: Defining the Issues in Theory, Practice, and Policy という2005年秋にオックスフォード大学出版会から刊行された本があります(残念ながら日本語訳はないようです)5)。その本の中で、編著者であり、Neuroethics 研究の第一人者でもあるJudy Illes(スタンフォード大学教授)が、Neuroethics の起源を調べたことが紹介されています。もともとは、1989年にRonald Cranford という、ミネソタ大学の研究者でミネソタ州ヘネピン郡医療センターの医師でもある人が Neuroethicist という記述を用いた論文を書いたことが始まりなのです6)。Neuroethicistは Ethicist、つまりEthics の人称形で、倫理学者、という意味ですが、それにNeuro-という接頭語をつけた造語で「脳のことを倫理的に考える人」という意味付けで比喩的に用いたのではないかと考えられます。今でこそNeuro-という接頭語のついた名詞はたくさん見かけます。Neuroscience を筆頭に、Neuroimaging、Neuromarketing、Neuropolitics、Neurotechnology 等々。それらのような造語―Neuroコトバ―が浸透していく前から、既にNeuroethicsという概念は研究者の 中に芽生えていたのだと言えるでしょう。

先に、「Neuroethicsという用語の定義にウィリアム・サファイアが大きな役割を果たした」と書きましたが、彼は2002年5月にカリフォルニア州サンフランシスコで開催された国際会議 Neuroethics: Mapping the Field の議長をつとめました7)。この会議は、まさにNeuroethicsの定義に関する議論を重ね、どのような研究分野(Field)がどのようにかかわりを持つのか、その位置づけ (Mapping) を行うという目的のもとに開催され、脳科学の研究者のみならず、哲学・倫理学・法学・宗教学・生命倫理学・経済学・ジャーナリストなどいろいろな領域と職業からの参加がありました。彼はここで培われた知見をもとに、ニューヨークタイムズの記事を書くにいたったのです。

日本において、Neuroethicsというコトバにはいくつか異なった訳語が使われています。「脳のなかの倫理」では、「脳倫理学」、NHKスペシャルの中では「神経倫理」という訳語が使われ、2005年に開催された第28回日本神経科学会シンポジウムでは「神経科学倫理」が用いられました。SCIのサイトでは敢えて訳語を用いずに「神経科学の倫理」という表現を使っていらっしゃいます。今、私が働いているのは科学技術振興機構という独立行政法人の組織にある社会技術研究開発センターというところです。そこに「脳科学と社会」という研究開発領域があり、さらにその中に「脳神経倫理研究グループ」という小さな研究グループがあり、そこで任期付きの研究員として働いています。この研究グループは、「脳科学と社会」の領域統括である小泉英明先生の構想の下、日本で唯一Neuroethics を専門に研究対象として扱っていくことを看板に掲げて2004年に発足して2年になり、ボード会議と称して、生命倫理学や行動遺伝学、神経科学、ジャーナリストなどの多様な構成メンバーによるミーティングを行って、大局的に論点整理をしながら、Neuroethicsに関してより専門的、実践的に取り組むための常勤研 究員を雇用し「倫理的配慮をしましょう」というポーズだけではない、実体を伴う倫理的思索を続ける道を模索しています。

私たちのグループの中ではNeuroethics というコトバを「脳神経倫理」という呼称で扱っています。当グループのリーダーである佐倉統・東京大学大学院情報学環助教授が、「『神経』だけでも『脳』だけでも、今話題になっている脳科学の倫理の問題を扱っていくには十分な表現ではないような気がして、訳語として美しいとは今でも思っていないけれども、でも問題の広がりと深さを、十分日本語で表現できないから(本人談)」、という理由で「脳神経倫理」を考案されたそうです。あなたなら、Neuroethicsをどう訳しますか? 何かステキな語感で、かつ、問題の広がりと深さを反映できるコトバを思いついたらぜひお知らせください。

私たちは「脳神経倫理」が学問として、そして社会通念として日本の中に根付くことを願って、微力ではありますが、世界の研究者と連携してその学問特性を調べ、その成果を社会に広く伝え、日本の社会と研究現場に特有の問題の解決の道筋をつくるための基盤になるような倫理観について考えていきたい、あらゆる分野の研究者達と、そしてこの社会環境で生きている皆さん一人ひとりと共に、この問題について考える場を作っていきたい、という気持ちで活動を行っています。基礎から応用へとその適用の場を広げてきた脳神経科学研究は、SCIでも取り上げられているBMIやロボティクスへの応用のみならず、スポーツ科学分野との融合をも深めつつあり、3月17日には早稲田大学で「スポーツと脳機能」というシンポジウムが開催されます。今まではスポーツドーピングやRoboethicsという別々の世界で討論されてきた倫理的な問題が、脳神経倫理学とも融合してより広範でありながらもより深い議論の場が出来ていくのでは、という予感がしています。

今年7月には日本神経科学会(7月19日〜21日 京都国際会議場にて)には、先に紹介したスタンフォード大学のJudy Illes教授が来日し、シンポジウムで発表されます。また、私たち脳神経倫理研究グループでは学会の後7月22日に彼女を囲んで東京でサテライトワークショップ(同時通訳つき)を開催する予定です。脳科学と社会をつなぐ要素のひとつである「脳神経倫理」について、興味のある方の参加を歓迎いたします。

参考文献

1) マイケル S. ガザニガ(梶山 あゆみ訳) 脳のなかの倫理 紀伊国屋書店 (2006)

2) W. Safire, The Risk That Failed. New York Times, July 10th (2003)

3) M.S. Gazzaniga, The Ethical Brain. Dana Press (2005)

4) A.A. Pontius, Neuroethics vs Neurophysiologically and Neuropsychologically Uninformed Influences in Child-rearing, Education, Emerging Hunter-Gatherers, and Artificial Intelligence Models of the Brain. Psychol Rep 72: 451-458 (1993).

5) J. Illes, Neuroethics: Defining the Issues in Theory, Practice, and Policy. Dana Press (2005)

6) R.E. Cranford, The Neurologist as Ethics Consultant and as a Member of the Institutional Ethics Committee. The Neuroethicist. Neurol Clin1 7: 697-713 (1989)

7) S.J. Marcus (Editor), Neuroethics: Mapping the Field. Dana Press (2002)

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