立花 | 僕の作ったこの一連のサイボーグの番組を観たいろんな人から、これは「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」(以下「攻殻機動隊」)そっくりじゃないかとかそういう反応をすごく受けて。実は僕あんまりそういうものを見てなかったんですけど、そのあとに見たら本当にそっくりの未来というのが映画に出ていて驚いたんです。 そもそもあの2つの映画(「攻殻機動隊」「イノセンス」)は、何年ぐらいの未来を設定したんですか。 |
押井 | 攻殻機動隊は、よく覚えてないけどたしか2050年ぐらいだったかな。 |
立花 | 「イノセンス」もそれぐらい? |
押井 | それから3年後という設定ですからほぼ同じ時代ですね。 |
立花 | なるほど。いずれああいう時代が来るんだと考えながら作られたんですか? |
押井 | うーん、あくまでサイエンスフィクションということなので、実際にその通りになるかどうかなんてことよりも、設定にリアリティーがあるかどうかというふうなことを考えますね。ロボットを戦闘で使うとか、そういうことは想定できなくても、人間がサイボーグになっていくとか、ネットでつながっていくとかいうことに関しては十分リアリティーがあると。同じSFでも、完全にフィクションとして作るのと、リアルな予感に基づいて作るということでは、ちょっと傾向が違うと思うんですよね。 |
立花 | 僕はそういう作品があるのを知らないで取材していたんですよね。リアルに行われている研究からのショックがどんどん積み重なってきて、世界の将来ってどうなのかみたいなことを思っているときに、あの映画を2つ観るでしょ。そうするとね、本当に未来がああいう方向へ広がる可能性って、ものすごくあるんだ、という気がしまして。
番組の中に出てくるイギリスのワーウィックという学者がいるんですが、自分で自分の体にチップを入れて、俺は人間サイボーグだと最初に言った人です。この人はアイ・サイボーグという本の中で、他はみんなリアルな年代のことを書いているんですが、最後の章だけが未来予測になっていて、2050年に書いたという設定なんです。2050年に過去を振り返ってみて書いたという文章で、その中では50年前(つまり2000年ごろ)に人間とロボットの世界というもに関していろんな予測があったと。 1つは、そのオミナスな未来、不吉な未来として、ターミネーターの世界があるわけですよね。機械の方が人間以上になって人間を支配するみたいな感じになる。あとはまあ、人間はずっとこの機械を支配し続けて、機械といっしょになった幸福な未来がある、みたいな。 振り返ると50年前そういうことを言っていた連中がいたけれども、結局現実は、サイボーグの全盛時代になったと。全ての人間がパートヒューマン、パートマシンであって、マンマシーンの完全なネットワーク社会になったという、そういう結論付けになってるんですよ。まさにこのイノセンスや攻殻機動隊の世界そのものですよね。 イノセンスですごく印象的だったのは、各人がいまやどこまで、有機体としての人間部分を残しているか、あるいはその中のどれだけが機械に置き換わったかみんな個々に違っていて、それでお前の残っている部分というのはこれっぱかりだと、そういうくだりがありますよね。今はすでに我々はサイボーグの時代に入っているけれども、そのサイボーグ的な、つまり人間の体の中に入っている機械の部分というのは、まだ本当に微小な部分ですよね。それが確実にどんどん増えていって、あの2つの映画のような世界になっていくんじゃないかという気がするんですよ。 |
押井 | 多分、特に経済に関わってくることになればそうでしょうね。パソコンなんかもそうだったわけで、かつては個人がコンピュータを所有するというのは夢みたいな話で、コンピュータは巨大な軍事基地の中枢だったりとか、そういう特殊な場所にしか存在しないもんだったのに、漫画でもありましたが、今はどこにでもコンピュータがあるわけです。もしかしたらポケットにも入っている。 |
立花 | そうなんですね。 |
押井 | というようなことで言うとですね、ニーズがあって、供給が可能であれば、機械化された人間というとたぶん抵抗があると思うので、おそらく人間の体の中に最小のチップを入れるとか、一種の有機サイボーグというような形から入って、徐々に変ってくるんだろうと思うんですよね。
僕が描いた世界の中でも、基本的には有機サイボーグなわけですよ。有機質で構成された体の部品を、個人のDNAに適合させた素材を使って変えていくんだから、これはオリジナルなんだという。つまり使いこなすことによってオリジナルになるんだと。 体というのはそういうふうに再獲得していくものとしてみんな受け入れるしかなくなってくるんだと。もって生まれた体というのは、言葉の厳密な意味で言えば、だいたい7年間ぐらいで全部細胞が生まれ変わって、物理的に違うものになっているわけですから、生まれた瞬間から持っている体は存在しないわけですよね。 そこに例えば一種の人工物としての、第2の体というか、獲得したものだけどオリジナルとして、自分の中に付け加えていく。入れ歯もそうだし、ある種の患者さんはすでにペースメーカーを埋めてあるとか、たぶんそういった形で徐々に徐々にね、自分の「オリジナルな体」っていう考え方から生まれる抵抗を減らしていくことになっていくんだろうと。そういう流れは障害があるとか病気を持っているとか、医療方面から始まるかもしれないけれども。決定的にあるのは、僕はやっぱり携帯の普及と同じ論理だと思うんですよ。 |
立花 | 携帯と同じとは。 |
押井 | 今携帯手放して生きられない人が多いわけだけれども、同じように利便性、仕事上の合理性とか、社会生活の必要上に迫られて、例えばチップが生活のなかに入ってくるとか。人間だけじゃなくて犬にもあるわけで。全ての飼い犬にチップを入れてというようなことを進めようと1部でしているわけですよね。迷子になった場合にすぐ探し出せるとか、いろんなメリットがあるんで。 人間も同じであって、たぶん特定の個人として存在する場合と、ある集団の中のある人間として機能する場合とね。どちらが社会的に優先されていくかということになったときにね、それを受け入れることでしか社会化されないという。今携帯をもたないということはかなり仕事上不都合になるわけですね。僕は実は携帯持ってないけれども、嫌いなんで。でもやっぱり仕事上携帯持たないということは、ことあるごとに非難されるわけですよね。どうやってつかまえたらいいんだという。そういうふうなことで徐々に徐々にプレッシャーを与えられていって、いったん持ち始めるともうなしではすまなくなる。 |
立花 | そうですね。 |
押井 | たぶん人間の体というものに対する、一種の生理的な抵抗も、社会化すべきという文明化の流れの中で、障壁が乗り越えられて、自分の体なのに一部社会化されてしまうと。そしてその領域がどんどん拡大していく。そうするとさらに個人が受ける利便性が拡大していく。という形にみんななるんじゃないでしょうかね。 |
立花 | それと同時に、人間のある部分がそこへ置き換えられて入っていっちゃうということ、例えば携帯の中のメモリーに自分のメモリーをどんどん移しちゃうでしょ。機械の中に自分の持っている記憶をどんどん移しちゃって、その中である程度また進行させると、自分のメモリーがある意味で死んじゃうというかね。あいつの電話は何番と言われて、わからないですよね。携帯出して調べればわかるから。 それと同じで、ワープロを使っていると漢字の書き方を忘れちゃうみたいに、現に人間の記憶の相当部分が、そういう機械の中に移し替えられて、機械のメモリーと一緒に生きざるを得ない人間に今なりつつあるという気がしますよね。 |
押井 | 記憶の外部化というやつですよね。映画の中ではそういうふうに呼んだのですけれども。記憶を外部化することで、人間の存在そのものが変ってきていると。手始めはそういうメモリー機能というか、仕事上とか生活上外に持ち出して置いておくとすぐ検索できて便利とか、そういった意味合いで記憶の一部を外部化していく。 そのうちに自分の生活習慣とかね、自分の体にとって必須のデータ、生理的なデータや医療上のデータであるとか、それこそ個人情報であっても、ある程度の社会に委託していくというか、いわば客観化していくということで、自分の体自身も相対化していってしまうというふうなことには、当然なると思うんですよね。そうすると最終的に価値ということが問題になってきて、それをよしとするか、それを拒否するのかというね。 |
立花 | そうですね。 |
準備中