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ゲノムコード(前半)

いま生命科学の世界で最大の話題は「RNA新大陸の発見」と呼ばれている現象である。
「RNA」とは何か。
DNAとならんで遺伝物質の代表とされる、最も基礎的な生命分子である。
では、「RNA新大陸」とは何か。
これまで、「RNAとはこんなもの」とされていた常識がすっかりくずれ去り、新しいタイプのRNAが次から次に見つかりつつあることをさす。
しかも、それら新しいタイプのRNAが果たしている機能がこれまでのRNAと全くちがうということがわかってきた。生命科学の地図はいま大きく塗りかえられようとしている。
なぜ、新しいRNAの発見が生命科学の世界でそれほど大きな話題になっているのか。
生命科学の基礎原理中の基礎原理であった「セントラル・ドグマ」が、それによってほとんど引っくり返ってしまったと、みなされているからである。
こう書いても、それが何のことかさっぱりわからない人が大半だろう。いまの日本では、「『セントラル・ドグマ』って何?」という人が大半のはずだ。セントラル・ドグマというのは、分子生物学の中心概念だから、いまでは高等学校で生物を履修すれば必ず習う。だから若い人で高校で生物をとった人なら知っているはずだが、そうでないとチンプンカンプンのはずである。年をとった人だと、わからない人がさらにふえる。分子生物学そのものが新しい学問だから、五〇代ちょっとすぎになると、高校で生物をとった人でも分子生物学的内容を何も教えられていない。
だいたいDNAという概念ですら、学校教育の課程に取り入れられたのは、七〇年代に入ってからなのである。もちろん、科学好きの人で、一般書、一般メディアを通じてDNAの何たるかを自己学習した人は少なからずいるだろうが、大ざっぱないい方をするなら、日本人で五〇代半ば以上の人は基本的にDNAについて何も知らないし、それ以下の人でも、高校で生物を習っていないと何も知らない。DNAを知らないのだから、まして、RNAの何たるかを知らないし、セントラル・ドグマの何たるかも知りようがないということになる。
しかし、この先、DNAの何たるかくらいは知っておいてもらわないと話の進めようがないから、それくらいは常識として知っているという前提のもとに話をすすめていく。
「セントラル・ドグマ」とは、直訳すれば、中心教義ということで、キリスト教でいえば、「イエス・キリストが十字架にかかって死んでくれたおかげで、人類がみな救われた」とか、仏教でいえば、「色即是空」(この世の現象世界はすべて空虚である)の教えとかがそれにあたる。それを物理学の世界に置きかえれば、「この世のあらゆる運動は、ニュートン力学の法則に従う」といったことが中心教義というに値するだろう。
 要するに、原理中の原理といっていい大法則が中心教義なのだ。
 それが引っくり返ってしまったということは、物理の世界でいえばニュートンの万有引力の法則が否定されたというに近いことになる。
 しかし、それほどの大事件が起きつつあるということを知っている人は、まだ社会のごく少数者でしかない。一般ニュースメディアの報道にのらないからである。
 先に述べたような事情で、日本では分子生物学とかDNAの世界について知る人(興味を持つ人)があまりに少ない。メディアの報道量はそのニュースにどれだけ多くの人が興味をもつかに左右されるから、日本では報道されない。
 それに加えて、事態の進展があまりにも急テンポであるため、まだ全体像がよく見えてこないという事情がある。生命科学の研究者たち、あるいはその周辺世界にいる人々ですら、いま起きていることの本質が何であるかについて、議論が百出してまとまらないという状況である。  このニュースは、メディアでいうと、もっぱら研究者が読む専門誌の世界にとどまっている。  やっと最近、岩波書店の『科学』のような一般向け高級科学雑誌が、この問題を大きく取りあげ、「RNAが生物の常識を変える」(〇六年五月号)という大特集をした。それ以前は、『実験医学』(羊土社)といったバイオサイエンスと先端医学の専門雑誌が、「RNA新大陸の発見からnon coding RNAの機能解明に挑む」といった特集を組んだり(〇六年四月号)、『バイオニクス』(オーム社)という生命理工学の専門雑誌が「RNA新大陸発見!」(〇六年一月号)という大特集を組んだりといったレベルにとどまっていた。
 実は専門誌の世界でのRNA見直しの気運は、〇四年ごろからはじまっており、『実験医学』は、〇四年十一月に『躍進するRNA研究』という部厚い別冊を発行したし、『蛋白質 核酸 酵素』誌でも〇四年十二月号で、ほとんど雑誌の三分の一をつぶすような大特集「なぜ今 non coding RNAなのか」を組んでいる。
 この特集のタイトルになっている、「ノン・コーディングRNA」という概念が、まさしく、セントラル・ドグマから外れたRNA分子を意味しているのである。
 ここで、ちょうどよい機会だから、セントラル・ドグマとは何なのかということを簡単に説明しておこう。
 その前に、まずは、生命世界の基礎原理について、少々解説しておく。
 生命世界を構成する全ドラマのしきり役は、DNAとタンパク質である。
 動物も植物も、あらゆる生命体は細胞からできている。あらゆる細胞の中に、細い糸状のDNAと呼ばれる情報分子が入っている。ヒトには約六〇兆個の細胞があるが、その一つ一つに、太さはわずか二ナノメートル(一〇億分の一メートル)だが、長さは二メートルにも達するという細い細い糸状物質がたたみこまれて入っている。
 この糸状物質は、デオキシリボ核酸(略してDNA)と呼ばれる生命物質でできているが、この物質を構成している塩基分子の配列そのものが、遺伝情報になっている。その配列は基本的にATGCの四文字で表現され、その一つ一つの文字の組み合わせがタンパク質の原料であるアミノ酸に対応している(第一図参照)。
 その総文字数、ヒトの場合約三〇億。これが生命活動の全プログラムで各細胞に同じものがワンセット入っているが、それぞれの細胞がプログラムの違う部分を読みときつつ、ちがう活動をしていく。その総和がその人の生命活動そのものなのだ。
 プログラムの基本は、それぞれの細胞がいつどのようなタンパク質を作るべきかの指示である。つまり遺伝情報とは手っ取り早くいえば、タンパク質の構造情報(構成分子たるアミノ酸の配列情報)なのである。その情報の中に、その生物の生命活動のすべて(構造だけでなく機能発現の指示も)が秘められている。
 生命活動のすべてが、しかるべきときにDNA上の特定の遺伝情報を読み出し、それに従って、特定のタンパク質を作り、その指令で特定の生命反応が進むという形で進行していく。  タンパク質というとき、肉魚に含まれる栄養素としてのタンパク質をすぐに想像するとまちがう。
 あのような構造タンパク質もタンパク質だが、もっと大切なのは、生命活動の仕切り役である機能タンパク質である。あらゆる生体のあらゆる生命活動が、酵素と呼ばれる機能タンパク質の働きで進行していく。
 その機能タンパク質も、DNA上の遺伝情報の読み出しで、しかるべきときにしかるべき内容のものがしかるべき量だけ作られていく。そのようなDNA上のひとまとまりのタンパク質生産情報が、遺伝子と呼ばれるものの本体である。
 生体は、約二万二千の遺伝子(ヒトの場合)によって作り出された沢山の機能タンパク質によって仕切られた無数の生化学反応の集積体である。生体はDNAのプログラムで常時ダイナミックに活動しつづけている分子マシーンなのである。
 その活動のもとになる情報は、すべて、DNA上に遺伝暗号で記述されているはずである。それなら生命のナゾを解き明かすために、ヒトの細胞にあるすべての遺伝情報をとりあえず全部読んでしまおうという計画がたてられた。
 それが世界中の生命科学者の共同研究プロジェクトとして九一年にはじまったヒトゲノム計画である。
 ゲノムとは、それぞれの生物種の遺伝情報のすべてをいう。ヒトの場合、それは約三〇億文字あり、全部解読するのに約十二年かかった(〇三年終了)。
 全解読プロジェクトは、ヒト以外の種でもいろいろ同時進行したし、いまも進行中である。全部合わせると、動物、植物、微生物などほとんど千五百をこえる数のプロジェクトが同時進行した。すでに解読を完了したものとして、動物でヒト、マウス、植物でイネ、シロイヌナズナなどがある。微生物では大腸菌、コレラ菌などがあり、すでに二〇〇をこえる生物種においてプロジェクトが終了している。ゲノムまでいかない部分解読になると、大変な数の生物種の遺伝情報が解読されており、それを全部合わせると、ノアの箱船に乗った全生物とまではいかないが、ミニ動物園が開けるくらいの規模になりつつある。
 いまや、それらの成果をふまえ、種をこえた遺伝情報の観点から、あらゆる生命活動を横断的に解析していこうという大研究(ゲノムネットワーク解明)がスタートしている。
 ネットワークといえば、一人の人間の体内でも、同時に多数の遺伝子が相互作用しながら働いており、そのネットワーク構造をとらえないと、生命活動の全貌が見えてこない。
 ということで、いま生命科学は、二重の意味でネットワーク研究に向かいつつある。一つの研究対象の単一の現象をより深いレベルでとらえようと、どんどん突っ込んでいくという従来のスタイルの研究から、多数の対象の相互関係を解明することで、対象の全体を全体性においてとらえるという新しい方向の研究が進みつつある。
 生命活動研究の大転換がはじまっているのだ。実は、先に述べてきたような新しいタイプのRNAの大発見という現象も、このような大転換の中で生まれてきたのである。
 そのあたりを述べる前にセントラル・ドグマについて、もう少し説明を加えておくと、これは、あらゆる種を通じての、そしてあらゆる遺伝子についての遺伝情報の流れに関する基本原則である(第一図参照)。
 タンパク質は、アミノ酸が結合することでできてくる。どのアミノ酸とどのアミノ酸が結合して、どのようなタンパク質が作られるべきなのかが記されているのが、遺伝暗号である。
 遺伝暗号どおりに、アミノ酸が集められ、そのとおりのタンパク質が作られていく過程を遺伝暗号の転写・翻訳過程という。その過程の一つ一つを実現していくのが、以下の三種類のRNA(リボ核酸)である。
 まず、DNA上の遺伝暗号を転写して、タンパク質合成の現場に情報を運んでいくのが、伝令RNA(mRNA)。
 次に、その情報を受け取って、設計図どおりのアミノ酸を探しだして集めてくるのが転移RNA(tRNA)。
 集められてきたアミノ酸を素材として設計図どおりのタンパク質を作っていく合成工場の役割を果たすのが、リボソームRNA(rRNA)である。
 これら三つのRNAが力を合わせてDNA上の遺伝情報を転写・翻訳してタンパク質を作っている。その情報の流れ(物質の流れ)そのものが、セントラル・ドグマと呼ばれている。この情報・物質の流れはこのとおりに進行して、決して逆流したりしないというのが、生命科学のドグマ(中心教義)なのである(実はほんのちょっとだけ逆流する流れもあることはある)。  それを簡単な図解にしたのが、前述の第一図である。
(注:本文中にでてくる図は月刊現代8月号に掲載されていたものを指します。)

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