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サイボーグ医療と生命倫理

生命倫理タイプII(続き)

 タイプIIの議論で重要なのは、大きな問いである。技術が人間に対してもつ意味を文明論的に問わなければならない。人間とは何であり、どこに行こうとしているのか。それは生命倫理では、ごく最近まで目立った形ではほとんど問われることのなかった問いである。もちろん、大きな問いを問うとはいっても、たとえば人間の尊厳といった概念を天下り的に持ち出して議論せよということではない。大きな問いは小さな問いなしには空虚になりかねない。実際には、個々の技術が小さな問いによるチェックを経ながら、徐々に実用化されていくだろう。大切なことは、そうした実用化を通して得られる知見に照らしながら、技術が人間に対して及ぼす影響、間接的で、長期的で、表立っては意図されていない影響を評価しようと努めることである。

この努力は二重の意味で困難な企てになるはずである。

まず、企てが生命倫理にとって新たらしいものであることである。タイプIの場合とは違って、問題を考える際に手がかりとなるような過去の経験の蓄積は直接的には見あたらないはずである。たとえばテクノロジー・アセスメントといったすでにある手法などを参照しながら、問いそのものを新たに設定していくほかはない。そこに、この企ての難しさの第一の理由がある。

第二の理由は、問いそのものの性格にある。今、タイプIIは生命倫理にとって新たな企てとなると述べた。しかし、生命倫理タイプIIに先例がまったくないわけではない。同様な問いを立てようとする試みは、生命倫理という営みが開始されようとしていた1960年代末から70年代にかけて、すでに存在していた。人工生殖、クローン技術、快楽機械などの可能性がいわれ始めた頃である。人間工学の登場は技術が人間そのものを対象とする段階に至ったことを感じさせ、技術が人間に対してもちうる意味を問うべきだという意識を生み出した。しかし、その問いへの試みは継続されずに終わった。

なぜ問いは継続されなかったのか。まず大きかったのは、タイプIで対応しなければならない事態、医学研究における逸脱の問題が立て続けに生じたことである。緊急性をもつ問いの前に、遠くを見通す必要のある問いは背後に押しやられてしまった。そこに現実の技術の水準の問題が加わる。当時、人間の改変の可能性をもつ技術の多くはあくまでも可能性にとどまっていた。タイプIIの議論を要する現実が到来するのは、かなり遠いとしか思えなかった。そうした状況では、タイプIIの議論を維持することはきわめて難しいだろう。

しかし、議論が維持されなかったのは、偶然的で外的な歴史的状況だけが理由なのではない。同じことは、ヒトゲノム計画と同時に提案され、実施されてきたELSI(ヒトゲノム研究にともなう倫理的、法的、社会的問題(Ethical, Legal, and Social Implications)研究の場合にも起きている。米国でELSI研究が提案され、ワーキンググループが動き始めた当初、研究の目的として、ヒトゲノム計画が及ぼす長期的な倫理的・法的・社会的影響の解明にかなりの力点がおかれていた。しかし、その後主として議論されていくのは、現実的な遺伝医学の問題、つまり遺伝子診断の実施手順となる。結局、議論はもっぱらタイプIに切り詰められ、長期的な見通しを必要とする問題の議論は少なくとも当初は退いたのである。その後も、遺伝子研究そのものがもつ長期的影響というよりも、研究の成果をどのように社会に伝えていけるのかというコミュニケーションの問題(これもきわめて重要な問題であるのだが)に関心が向いているように見える。

こうなるのは、タイプIIの問題がもつ性質のためである。そこでは、合意可能な結論を出すことがきわめて困難であると予測される。タイプIIが問うのは、緊急性はあるものの、余裕がなければ問えないような大きな問いである。それは小さな問いと比べるとはるかに成果の出しにくい問いである。問題を細かく切り分けて、その一つ一つに答えていく作業を積み重ねるといった、ポジティヴな対処は難しい。しかし、だからといって、意味がないということではない。それは、まず問うこと自体に意味があるような類の問いである。当然のことながら、そうした問いを堅持し、考察を続けていくには、きわめて大きな努力が要求されることになろう。

今日、人間をコントロールし、改変する技術はかつてないほどのリアリティを持ち始めている。それは、人類の将来を問うタイプIIの大きな問いに緊急性と重要性の装いを与えるだろう。にもかかわらず、そうした問いには、問い続けることの難しさが常につきまとう。いくら切実に見えても、問いはきわめて容易に消えてしまう。そのことを十分にわきまえ、対処しなければならない。すなわち、サイボーグ医療に関して、タイプIの議論に加えて、タイプIIの問いを発するだけでは不十分である。この場合、問いを発することよりもむしろ問いを持続することが大切である。そのため、日本においても、生命倫理タイプIIを成立させるような場を制度的に確保すべき時期に来ているのではないだろうか。その点では米国の大統領生命倫理評議会の仕事が参考になるだろうし、サイボーグ医療と直結している脳神経科学の分野では、日本でも、小規模だが、従来の生命倫理タイプIとは異なる志向をもつ動きが生まれつつある。

ともかく、生命倫理がサイボーグ医療や脳神経科学、あるいは遺伝医学や薬理学の発達が提起している問題に対応しようとすれば、新たな議論と考察が必要となることは明らかである。生命倫理には、タイプIの議論によって個々の技術に注意深く対応していくとともに、そこで得られた知見から離れることなく、より大きな問いを問おうとするタイプIIの議論を開発し、維持していくこと、そのための制度的裏づけをすることでタイプIに解消しきれない問いを問い続ける努力が求められる。そうした努力なしに具体的、個別的事例に目をやっているだけでは、生命倫理はその存在意義そのものを喪失することになると思われる。

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