立花 | 生理学的に、自律神経の世界というのは、本人が意識しなくても勝手に働いているという点で、まさに人形、オートマトンそのものだと思うんですよね。
人間の意識の世界というのは、生理的なオートマトンの世界と微妙にこうインターアクトしていて、どこまでが自動系でどこからが意識主体かというのは微妙に入り組んでいて、そこに線を引くことが原理的にできないというね。そういう世界でしょ。 だからそこで、その人間の本質はなんだということを言い出したら、それこそその「攻殻機動隊」、「ゴースト・イン・ザ・シェル」の、ゴーストなんですよね。最近の脳科学のわりと有名な本で、「ゴースト・イン・ザ・ブレイン」という本がありますね、「脳の中の幽霊」というね、あそこで使っている、ゴーストもかなりそれに近いニュアンスで、人間の本質、本体の部分というのは、その結局ゴースト的な存在としてあるみたいなことがありますよね。そうすると、どんどんこの世界がさっき言ったような方向に進んでいくと、そのゴーストの部分はどうなるかというね、そこのテーマそのものに「イノセンス」は、迫ったと思うんですね。今のコンピュータやなんかのね、そういう進展から考えて、人間の本質のゴーストの部分が、こういう形で技術が進行していって人間がどんどんサイボーグ化していく社会で、どういうふうになってくると。 |
押井 | ゴーストというのは、士郎さんの原作でも何度読んでもよくわからない最大の部分なわけです。映画公開されたあとでも、特にヨーロッパとかアメリカへ行ったときに1番質問されるのが、ゴーストってなんだということ。それはスピリットのことなのか、それともソールなのかと。どちらでもないでしょ。 特に欧米の人には説明しにくい。いわゆるそれは欧米流の精神と肉体の二元論みたいなところで、例えばカントならカントの人間機械論みたいな、機械がうつろな空洞の中に宿ったゴーストだという。そういうけっこう寒々しいというか、けっこう虚無的な二元論みたいな形でしか了解されないと。 実は僕が考えているゴーストというのはたぶんもっと違うものだろうと。例えば1番そのときに答えた人言わなきゃいけないのは、ゴーストというのは、もしかしたら犬にもあるかもしれないということです。僕は犬にあることは確信している。猫にもきっとある、鳥にも魚にも植物にもあるかもしれない。それは決して、その欧米流のいわゆるスピリットではない。神さまが与えたものでもない。あの人たちはそういう考え方しないわけだから。 そういうふうに考えていったときに、初めてゴーストみたいなものを、人間機械みたいな二元論ではなく、日本的な、八百万の神みたいな、領域の中に確保できるんじゃないかと。植物まで風呂敷広げていいんだけれども。とりあえず動物で考えれば、動物と人間の共通項ということで、生物学的な部分や、野性的な部分であるとかじゃなくて、なにか文化としてあるんじゃないかと。僕はそれをゴーストというふうに、とりあえず考えようと思っているんですね。 たぶん犬というのは生まれてから1度も人間に出会うことがなければ、ゴーストは持たない。犬と人間が触れ合うことで、ある意味では相互にゴースト的なものが生まれる。自分でない他者と結びつくことによってというかな。魚にゴーストを感じられないというのは、魚と友だちにならないからなんですよ。イルカだったらありうるかもしれない。そういう意味で言えばイルカやクジラに思い入れする欧米人というのは半分正しいかも知れない。いずれにせよ僕が考えている人間性の本質みたいなもの、ゴーストみたいなものがあるとすれば、それはおそらくスタンド・アローンであるものじゃなくて、日常、家庭で獲得できるものであるというように思う。一種のネットワークなんだというふうに。僕はそういうふうに思っているんですけどね。 ゴーストという言い方ではまどろっこしいので、僕は体と呼んでいるんですけど、要するに持って生まれた肉体のことではなくて、自分がものを考え、社会化されていく中で獲得した第2の肉体のことです。 相互関係がないと体は生まれない、逆にいうと夫婦であったり親子であったりね、あるいは十何年ずっと可愛がってきた猫や犬がね、死んでしまったときに体は減ってしまう、大きな穴があいちゃう。そういうときに意識される体で、その大きな空洞とか欠損はおそらく回復されない、というふうなことを考えるんですよ。 |
立花 | 別の次元の話しになりますが、僕はゴーストってものすごく当り前というか、まがまがしいものじゃなくて、自然というのは全て階層構造になっていて、特にその情報的にエレメントがどんどん積み重なったときにできる上部構造の、1番上はそのゴーストにならざるを得ないみたいに思えるんです。 そのときに、今度は個とゴーストの関係で、ゴーストがネットワークの世界の中に溶け込んじゃう世界になるのか、あくまでも個を確立することが重要であるみたいな西洋文明的な考え方になるのか、ということですよね。外国でゴーストはスピリットなのか、って質問がでるっていうのは、そういう根本的な考え方の違いなんでしょうね。 |
押井 | 体ということで言えば、やっぱりこう欧米の人はどうしても、脳みそ、脳みそって言うわけですよね。人間の体の中にもヒエラルキーがあって、脳が1番偉いんであるという。そこに全てのセンサーが結び付けられているし、そこでものごとを判断していくと。意識もそこにあるし、人間の本質というものを物理的に身体をへらしていくとすると、ほかの臓器はいわば移植したり人工のものに換えてもいいけれども、脳を移植したり例えばコンピュータに代えると、人間じゃなくなるんだという。脳=人間なんだという、そういうふうな考え方が多いと思うんですよ。僕はあまりそうは思わない。やっぱり脳といえども実は巨大な神経の塊なわけで、神経の束として存在しているわけだし、それが発達したに過ぎない。そういう意味で言えば実は脳自体がやっぱり人間をコンピュータに例えるのであれば、デバイスの一種に過ぎないんだよという。よく脳はCPUに例えられますけど、じゃコンピュータというシステムのなかでCPUがそんなに偉いのかという話ですよね。CPUなしにはあらゆるシステム動かないかも知れないけれども、CPUそれ自体は単に演算を繰り返しているに過ぎないから。CPUは脳に似ているかもしれないけれども、最終的に脳にはならないといわれているわけですよね。 でも実はじゃ人間の脳はどうなんだろうかと。確かに巨大なそのレベルで演算を繰り返し、ある意味では予期しない答えを出すこともしばしばあるという部分で言うと神がかり的な部分があるかもしれない。でもいずれにせよ人間の体の中で僕は脳といえども一種のデバイスに過ぎないと。じゃ人間の体ってなんだという、人間の体の中で1番偉いのはどこなんだという。 僕は1番偉いとかなんとかいうふうなこと自体があまり意味ないんじゃないかと思うんですよ。人間の体があって、で脳があって初めて体なんだというね、いつもトータルで考えるべきもので、だから腕をなくした人でも、腕の感覚は最後まで残る。そこに意識された体が自分なんだという。物理的にあるかどうかの問題じゃないはずだっていう。だから僕はそういう意味で言えば、まあある人にとってはとっぴかも知れないけど。細胞の体に関しては抵抗ないけれども、臓器移植に関しては抵抗がある。 |
立花 | いかなる臓器移植もですか。 |
押井 | ええ、 |
立花 | その場合に臓器というのをどこの範囲までに。 |
押井 | 例えば輸血まで考えるか、輸血もだめなのかという話になりますね。それもだから、人工血液が可能であれば、別にそれは全然かまわないということ。要するに他人の体として存在したものが自分の体に取り込まれていくということだと、全く根拠のない人工物が体に入ってくることとは、全然意味が違うと思うんですよ。自分の感覚を、いわば培ってきた自分自身の肉体という。この腕がなくなってもおそらくこの肢から先の感覚が残るであろう自分の体というのは、おそらく置換できない。そこで意識された体自体は実態ではないと、神経の上に作り上げられた幻想に過ぎないから。 |
準備中