松田先生によってSato博士が紹介された後、博士とマンザナール・プロジェクトについてのビデオが上映された。ビデオは、マンザナール・プロジェクトの舞台となったエリトリアの紹介から始まった。以下、ビデオの内容を多少補足を加えて紹介させていただきたい。
エリトリアとSato博士の関わり
エリトリアでは年間降雨雨量20mm以下、気温は50度を越す地域もあるという厳しい環境に加え、エチオピアからの独立戦争で、人々は貧困と食料不足に苦しんでいた。Sato博士はその状況を見て、「貧しい人たちを科学の力で助けたい」と、戦時中から現地で魚を養殖し支援してきたのである。
その後、30年間に及んだエチオピアからの独立戦争は終結し、93年にエリトリアは独立国家となったが、依然多くの人が貧困と飢餓に苦しんでいた。そこでSato博士は複雑な養殖ではなく、現地の村人が自立できるように彼らが実践できるシステムを構築する必要があると感じ、そして考え出されたのがマングローブを植林するマンザナール・プロジェクトである。
マンザナール・プロジェクトの名前の由来
マンザナール・プロジェクトのマンザナールは、Sato博士が強制収容されていたマンザナール日系強制収容所からとったものだ。博士は「そのときのつらい体験を誇りに変えたい、マンザナールの人達は世界に貢献できる人たちだったと証明したい」という思いからこの名前をつけたそうだ。また、「今でもマンザナールの悪夢を見る。でも忘れないためにこの名前をつけた」ともおっしゃっていた。
マンザナール・プロジェクト
エリトリアでは乾期の6〜7ヶ月間は家畜の餌がなくなってしまい、家畜産業がうまく成り立っていなかった。しかし、Sato博士は、乾期でも海岸にはマングローブの木がまばらに群生し、ラクダがそれを食べているのを見てマングローブを植林することを思いついたのだ。
もし、海岸にマングローブの森をつくることができれば乾期でも家畜の飼育が可能になり、家畜産業が成り立つので、現地住民たちは経済的に自立することができる。さらに、エリトリアの人々が自分達の手によって自立するにはマングローブの植林が彼らにもできるような方法によって行われる必要があった。
しかし、マングローブの植林は博士にとっても村人にとっても初めての試みで、何も知識がないところから始まった。始めは全てが手探りで、手始めに植えたマングローブの苗木が全て6ヶ月で枯れてしまうなど、多くの苦労があったようだ。
そのような中で、Sato博士は川が海に流れ込む所でマングローブがよく育っているのを見て、マングローブの生育には陸上の栄養素が不可欠であることに気がついた。その栄養素とは、窒素・リン・鉄の三つである。講演でも、「海水に足りない栄養素は、窒素・鉄・リンだった。他の全ての栄養素は海水に含まれているんだ。」とおっしゃった。
<袋に詰められた肥料>
そこで、様々な実験から博士が考案したのは尿素とリン酸アンモニウムを3:1の割合で混合したものをポリエチレン製の袋に500g詰めて、その袋に3箇所だけ穴をあける方法だ。袋に3箇所だけ穴をあけることで袋内の栄養分が3年間かけて少しずつ溶け出し、窒素とリンを安定的に供給できるからだ。
さらに、三ヶ月育てたマングローブの苗木を海岸に植える際に、苗木を鉄ゲージで囲うようにした。こうする事で苗木を波の作用から守り、さらに鉄分を供給する事ができる。このことが説明されたとき、高校生たちから「すごい」と驚きの声があがっていた。
<鉄ゲージで守られたマングローブの苗>
Sato博士はこの方法によってマングローブの植林に成功し、現在では乾期の家畜の餌として定着している。さらに、マングローブの森は様々な生命を育むようになった。
※現在では上記の方法にさらに改良を加えている
この方法なら、どんな不毛の土地にも、海水さえあればマングローブの森を作ることができるとして注目されている。
<マングローブを食べるヤギ>
村人の声
マンザナール・プロジェクトでは30人の村人が働き、その多くは戦争で家族をなくした女性たちだ。彼女たちは、このプロジェクトで得たお金で暮らしている。戦争で夫を失った女性の「Sato先生のおかげで食べていける。本当に大切な宝物のような人」という言葉からも、Sato博士とマンザナール・プロジェクトが村人に受け入れられていることが伺える。
先生の「私も苦労したから苦労している人たちの気持がよく分かる。国籍や人種は関係ない。同じ人間なんだから」という言葉がとても印象的だった。
<左の写真と同じ場所の、2年後が右の写真>
文責:平山 佳代子
準備中