第5回 多重人格者との契約書
NHK解説委員・「科学大好き土よう塾」塾長(NHK教育) 室山哲也
私は多重人格者と契約を結んだことがあります。
あの体験は私の人生の中で、もっとも複雑怪奇、奇妙奇天烈、出口混沌、暗中模索な体験でした。「契約」とか何か。そもそも「私」とは何か。私の心に深い思い出を残して、ここ10数年間、すっかり忘れておりました。
ところが最近、あることが原因で、その体験を思い出してしまったのです。
きっかけは、京都のATRという研究所に、取材に行ったことでした。
「じゃんけん必勝のロボット作ります!」
髪はぼさぼさ、少し太めで、どこか少年の面影を残した著名な脳科学者が、
押し殺した声で、僕にささやきました。
ぽかんと聞き返す僕を、少し愉快そうにのぞきこみながら、ATR脳情報研究所の神谷先生の説明が続きました。
「脳の活動を外から捉える技術が進んできたので、それを使って、対戦相手の脳を読みながらじゃんけんすれば、100発100中、勝てるっちゅうことです」
どうだというかんじで、神谷先生は太ったおなかを突き出して胸を張りました。
少しユーモラスだけど、信じられないこの話は、「ブレイン・マシン・インターフェイス」という最先端の科学研究から生まれたものです。
「ブレイン・マシン・インターフェイス」とは、人間の脳とコンピュータ(マシン)を接続し、その人が考えている内容を外から読み取ったり、逆に、心で念じただけでロボットを動作させたりする、いわゆるサイボーグ技術を含む最先端のものです。
少しまえ、NHKスペシャルで、患者の脳内にチップを埋め込んで義手を動かすショッキングなシーンが紹介されましたが、神谷さんたちのグループは、それをさらに進め、fMRIを使って脳の外から脳の血流変化を捉え、解析することで、脳のイメージ通りにロボットの腕を動かすことに、世界で始めて成功したのです。
「じゃんけんロボット」はその文脈から出てきた研究です。
しくみはこうです。
私たちはじゃんけんをするとき、脳の運動野の指令で、体(手や指)を動かしています。この運動野の動きを、指が動く前に読めれば、じゃんけんの中身が分かり、勝つことが出来るというわけです。
さらに運動野は運動前野という「計画」を作る部分の指令で動くので、もし運動前野の信号を読めば、さらに早い段階で、じゃんけんが読めることになります。この話はいろんな意味で示唆的なものを含んでいます。
たとえば私がじゃんけんで「グー」を出すとき、私はどの段階で「グー」を出すことを決めているのでしょうか?運動野が「グー」を出せと指令を送るときは、私は「グー」を出すことを知っていると思いますが、運動前野の場合はどうでしょうか?さらに運動前野にどこかから(たとえば前頭前野)から指令がくるとき、どの段階で「グーを出す」意識が生まれているのでしょうか?
「グー」を出す意識は、あるとき突然表れるのでしょうか?あるいは、脳内の前兆活動の中で、グラジュエーションのようにじわじわと生まれてくるのでしょうか?
運動の場合はまだ単純ですが、もっと複雑な意思決定の時、自分の意思が生まれるプロセスはどうなっているのでしょうか?
意識の前の無意識のところでの脳の活動はどうなっているのでしょうか?
そしてもしそれらの動きを、この装置で読むことが出来たら・・・
ここまで考えて、私は、かつて取材で出会った多重人格者のことを思い出してしまったわけです。
10年ほど前、私がまだディレクターだった頃、アメリカのある病院を舞台に、多重人格者の番組を作ったことがあります。ペグとよばれる女性で、20以上の多重人格者でした。
普通、大型の科学番組をつくるとき、取材を始める前に「許諾書」を示し、サインしていただくのですが、どの人と契約を結べばいいのか、私はハタと立ち止まってしまいました。病院長に相談したところ、正式には全員ということになるが、実質上はそれは不可能だとのこと。ペグの中にいる色々な人格は、仲が極端に悪かったり、引っ込み思案な人がいて、そもそも会うこと自体ができないというのです。
「ペグ」は20数人の中の代表格の人格の名前で、私たちは大体「彼女」と交渉ごとをやっていたのです。
とりあえずペグに相談することにしました。
「私(ペグ)は取材に応じてもいいんだけど、この顔や体はほかの人のものでもあるので、相談したほうがいいかもしれないわね。」
「じゃ、みんなに話してくれる?」(私)
「ちょっと待っててね」(ペグ)
突然ガクッと体を傾け、はっとわれに返ったように話し始めるペグ。
「あの人はOKって言ってる。」(ペグ)
聞けば、心の向こう側の草むらのところに居合わせたほかの男性の人格に聞いてきたのだといいます。
わたしは理解不能で、頭がぐらぐらしてきましたが、さらに聞きました。
「ペグは何人くらいの人の合意を取れそう?」
「分からないけど10人ちょっとならいけると思うけど・・」
ということはそのほかの人格の了承をどう取るのであろうか?
「他の人たちはどうなるの?」
「私はあまり親しくないし、ほとんど出てこない人だから、全員は無理ね」
「どうしたらいいんだろう?」
「うーん・・・」
ペグは困った表情になり、しばしの沈黙。。。
「ま、しょうがないわね。何かあったら私が説得するから・・」
とこういう按配で、結局、可能な限りの数人分のサインをいただいてロケが始まりました。
この病院で、私はのべ十何時間も、多重人格の人たちと話し込むことになりました。
私は「多重人格」者と呼ばれる人に直接向かい合って、奇妙な感覚にとらわれました。目の前の人の脳の中に、何人もの人格がいる。それらの人々が次々と登場し、姿を消していく姿を見ていると、なんだか私の中にいる「何人もの人格」が呼応してうなりを上げ、表に出てくるような気がしたのです。
一体「私」とは何なのか。
一つの意思を決めて発言する、社会的な「私」は、本当の私自身(脳の中の人格)と同一か。
否、「私」の中には矛盾した何人もの人格がいて、いつもせめぎあい、闘争し、ついたり離れたりしながら、かろうじて「私」が作られているのではないでしょうか。
本当の私の姿は、矛盾に満ちた、整合性のない、とらえどころのないものなのではないでしょうか。
もし、脳科学の進歩でこの状況が読み取られると、一体どういうことになるのでしょうか。
「私」とはどの部分を指せばいいのでしょうか?
社会はどの私を信頼し、どの私に責任を負わせればいいのでしょうか。
そもそもそんなことがどこまで可能なのでしょうか。
どこまでそれをしてもいいのでしょうか。
社会的ルールはどうなるのでしょうか?
そういうわけで、せっかく忘れていたあの感覚。
頭がくらくらするような感覚が、
最近、私の脳に、戻ってきているのです。
(私は専門家でないので、哲学的な言葉の定義がばらばらかもしれません。あしからず。)
準備中