日本における科学技術政策決定システム
―――科学史において独創的な人間を多く輩出したのは古代ギリシャ時代だと思うのですが、たとえば古代ギリシャのようなシステムがあれば日本の科学技術も発展するのではないでしょうか。 生活を保障されている自由で天才的な個人の世界をまず設けてやるといいますか、まず個人があって組織を後にするという形式ですね。 このように個人を中心にしたシステムについて石井先生のご意見を伺いたいのですが。
システムに対する姿勢
システムと一言で言いましても、次元がいくつかあると思うんですね。あなたのおっしゃることはよくわかるんですけれども、そもそもシステムというものがしっかりしていないと近代社会というのは成立しないわけであります。
古代ギリシャというのは「社会」というよりも「ポリス」(小さな都市共同体)であり、現在ほど大掛かりなシステムを必要としていなかった。 そのような小さな共同体の中では、わざわざ優秀な人間を選び出す仕組を考えなくても、あいつは出来る、ということは自然とわかってしまったわけです。
しかし近代社会はポリスに比べて非常に複雑であり、たとえば科学なら科学、教育なら教育という特化したシステムが効率よくはたらき、かつ外部からの刺激により自分自身を柔軟に変えていくというシステムがあるから近代国家でありうるし、発展しうるのだと私は思っています。
このような社会において適材適所で優秀な人間をどうやって見つけるのか、また、そこからはじきだされた人間はどうするのかという問題になってくるんですね。
そのへんのシステムがないと、うまくいかないでしょう。 そのために、たとえば小学校から大学にかけての教育システムがあり、その中で優秀な人間が選び出されていくのです。
たとえば小柴さんがそうですね。 彼だって昔は今ほどお金をたくさんもらっているわけではなかった。 一研究者としてスタートし、段々と実績を積み重ねることで研究費をたくさんとれるようになって、今のような大掛かりな研究ができている。 彼はこれまで今たしか百億円以上使っていますよね。 それでノーベル賞。
これは別に珍しいことではありません。たとえば野球やサッカーでもそうであって、小学生くらいのときから野球が上手いやつは中学・高校でも野球を続けるでしょうし、その中でも才能のある人はプロになるでしょう。また、たとえプロになったとしても、たとえば巨人軍なら巨人軍に入った後で熾烈なレギュラー争いがある。 それに勝ち残った一握りの人間だけが一流のプレイヤーとしてそれに見合っただけの報酬を受け取るのでしょう。
研究者にもそういったシステムがある。
ですから、ギリシャのアナロジーを近代社会にすぐにもってくることは不可能だと思います。 ただ、そのアイディアなりヒントなりをもってくることは可能だと思います。 問題は、それをもってくるときに今の時代、今の社会にそれが果たして合うのかどうかを考えることだと私は考えます。
研究の評価
―――これまでの第一期基本計画・第二期基本計画と、今度の第三期基本計画とで一番大きく異なる点は、国家基幹技術という新しいカテゴリーをつくろうということですね。 もちろん、これは審議過程で出ているわけですが。
たとえば先程の研究費の枠の話でも、実績を積み上げて競争を勝ち抜いてきた人たちにそれこそ百億単位という莫大な金を出すという話だったと思うのですが、その候補にあがっている名前の中には旧科技庁系の特殊法人、つまり旧科技庁の生き残りが多く含まれていると思うのですが、そこらへんは問題なんじゃないんですか。
ええ、それは一目見れば「ああ、これは旧科技庁だな」と全部わかるわけで(笑)。 ですからそのようにして研究費が一般の研究者には流れないで、そういうところへ行ってしまう。 特殊法人のようなものが分配システムの中で、それこそ特殊な地位を占めている わけです。
そして、研究費が過度に集中しているのは、各省庁が同じところに競って「使ってください」とお金を差し出しているからです。 本当にそれが有効なお金の使い方なのかは誰にもわからない。 先ほどの「弾込め」の話を思い出して下さい。
先程のお話にもありましたように、研究者の実績に基づいて選考を行い、予算を決める。
国の予算というのは納税者により預けられた税金、つまるところ国民のお金ですよね。したがってそれはきちんとしたやり方で使われなくてはならない。
学術の目的は二種類あると思うのですが、ひとつは本質的な理解を進めるもの、そしてもうひとつはその応用。
そして研究のプロセスにも二種類あって、ひとつはアイディアを出す。そしてもうひとつはそのアイディアが本当にあっているかどうか確かめること。
で、大変なのは後者だと思うんですね。 正しいかどうか確かめるためにはその分野に関する知識も必要ですから。 ですので、研究を評価する人にはそこまで理解でき、かつ利害関係のない人が適任だと思うのですが、そういう人は一体どこにいるのでしょうか(笑)。
今のお話は評価をいかにして上手くやるかということ、そして、研究者による評価をどのようにして政策に結びつけるのか、ということだと思うのですが、後者は研究者以外でもできますね。
しかし、両方ともできる人はなかなかいない。 そのような人材をどうやって育てるのが問題になってきます。
たとえばある研究を評価する際、その研究がどのようなものかわかっているのは、同じような研究をしている先生、つまり競争相手ですね、このような人である。すなわち競争している間柄でチェックする体制が必要となってきます。
しかしながらこのような体制を整えれば安心かというと、そうでもない。
たとえば、他の人がみんな高い評価をつけている中でひとりだけ低い評価をつけている人がいたとします。 よく調べてみると、実はその人は評価されている研究者のライバルだったりする。
そこらへんの利害関係のチェックをする必要が出てくるんですね。 つまり評価者の評価が必要になってくる。このように、評価をちゃんとしようとすればするほど自分の首を絞めるように忙しくなるわけで(苦笑)。
時間が経ってもほとんど変化しない骨董品と違って、私たちが評価しているのは常に発展し続けている人間の営みでありますから、評価者を評価する人、いわゆる「目利き」が必要だという話であります。
議論の重要性
それから、やはり議論は必要です。
といいますのも、日本はこれまで評価についてパネルディスカッションを本当の意味では行ってこなかった んですね。 システムセンターが出来て初めてパネルを導入したのであって、それ以前はやってこなかった。
欧米だとちゃんとパネルディスカッションというのが含まれているわけです。 たとえば日本と某国で共同して審査を行う際、こちらとあちらではやり方が異なる わけですから、持ち寄った評価結果がなかなか合致しない。 作業にものすごく時間がかかっていたんですね。
ところが、システムセンターが出来てこちら側でもパネルディスカッションを導入して評価を行った結果を持っていったら、ものの見事に合致するようになった。
あちらの責任者に「なんで今年はこんなに上手くいったんだ」と驚かれたぐらいでありまして(笑)。このように、専門家の評価というのはシステムが上手くいきさえすればかなり効率よく作動するんですね。
ですから、やはり議論は重要です。
質疑応答その3:◆終◆
準備中