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サイボーグ医療と生命倫理

生命倫理タイプII

 今のところ、サイボーグ技術については、医療応用への期待の方が大きいようにも見える。実際に応用されたサイボーグ技術がもたらす成果は時に感動的ですらある。そのことは、多くの人が認めるところだろう。しかし、サイボーグ技術については、新たに登場する技術を一つ一つ慎重にチェックし、医療応用をしていくだけで十分なのだろうか。そうしているだけでは、気がついたときには、われわれの社会が思いもかけぬところに立ち至り、もはや引き返せなくなっているようなことにはならないだろうか。この技術には、そうした不安を人々に抱かせるところも含まれている。

もちろん、そうした不安は取り越し苦労にすぎないという見方もあるだろう。最初、人々は思いもよらぬ方法で治療が可能なことに驚き、不安を感じるかもしれない。しかし、不安には確たる理由があるわけではない。現代の医療の分野では機械はすでにさまざまな形で活躍している。それに続くのがサイボーグ技術である。その技術自体に問題があるとはいえない。しっかりしたチェックを怠らなければ、心配は無用である。逆に実用化が進めば、医療技術は着実に進歩し、大きな恩恵がもたらされる。人々も技術に慣れ、不安も解消するはずである。

おそらく、このように考える研究者や技術者も少なくないのではあるまいか。たしかに、マッドサイエンティストが登場するかのように騒ぎ立てることは、ナンセンスかもしれない。しかも、現代のわれわれはたいていのことに慣れてきた。しかし、サイボーグ医療に対しても、現行のタイプIの生命倫理による対応だけで十分ということになるのだろうか。

漠とした不安には、三つの要素が結びついている。サイボーグ技術は人間の能力を強化改変するだけではなく、人間を思いのままに操つる可能性を秘めている。そうした可能性は、情報工学の発達とともに、特に脳神経科学による人間の解明に裏打ちされている。 (人間の)増強改変、(他者の)操作、(人間本性の)解明はいずれもわれわれにとって未知の領域である。この増強改変・操作・解明の三つの要素が結びつくことで、人間にこれまで予想もしなかったような大きな変化がもたらされようとしている。そのとき何が生じるか、そこに不安の源があるだろう。

求められているのは、目の前の技術を特定の患者に適応することの可否を判断することだけではない。そうした個々の技術は人類をどこに導こうとしているのか。その技術は人間にとってどのような意味をもちうるのか。どのような技術の展開が人間や社会にとってよいといえるのか。今われわれは、技術がもたらす変化の意味を明らかにし、それにどのように対処すべきか、考えるように求められている。

こうした事態は、ひとりサイボーグ技術のみによってもたらされているわけではない。すでに同種の問いは、最先端の生命科学・医療の複数の分野で生じている。それを考えると、問題を取り越し苦労に過ぎないとして退けるのは間違いだろう。人間の増強改変や操作の可能性が現実味を帯びてきている。そうした技術的進歩を支えている人間本性の「サイボーグ技術的」解明が大きな衝撃をもたらす可能性がある。たとえばサイボーグ技術は、人間が徹底的に機械であることを明らかにしつつある。そのことが何をもたらすのか。その機械はどのような倫理や社会をもちうるのか。

ともかく、問題の技術は人間の本性を解明しつつ改変する技術である。そのことを認める時、従来の生命倫理タイプIの考察だけでは不十分であろう。問われているのは、ある技術を医療として適用してよいかということよりも、それを医療として適用して行った場合にもたらされる変化の意味である。それを考えるためには少なくとも、直接的には意図されていないような影響に焦点を合わせて、技術がもちうる長期的、将来的な意味も問わなければならない。ここで生命倫理タイプIIと呼ぼうとするのは、そうした問いの試みである。

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