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2 記憶、自己意識

押井そのとき考えなきゃいけないないなと思っているのは、じゃあ個人とかね、自分と呼んでいるものの本質はなんなんだろうかという。
立花その関係で押井さんが書かれている本や対談の中に、記憶こそ人間の本質であると昔は考えていた、みたいなくだりがありますよね。今度の取材で僕1番衝撃的だったのはね、人工海馬を作っている研究者に会ったことなんですよ。初め資料としてその人の研究の紹介を読んでいるときには、ほんとかなって思った。相当怪しげな研究だと思った。そんなのできっこないだろうと思ったんですよね。やっぱり人間のメモリーの巨大さというのは、信じがたいものがあるから、そんなもの機械仕掛けでできるわけないじゃないかと思った。ところが実際にその人に会ってみてね、研究の現場を見たらね、あっこれ本当にできそうなんだって、びっくりしましたよ。それは考えてみると当り前のことなんであって、これだけ膨大なメモリーを人間の頭では常に、瞬時瞬時で書き換え置き換えしていくっていうのを、ものすごい量でやっているわけでしょ。それだけのことをやっているからには、それがそんな複雑なことやっているわけないんですよ。大昔からやっているわけだからね。 1番の原プロセスはシンプルなメカニズムなはずだと。それは原理的にこうなって、こうなって、それで現実に脳の記憶装置(海馬)の入力出力電気信号のいろんなデータを取ってみると、記憶装置を経由することで信号がどのように加工されるかわかってくる。そういうデータを本当に緻密に積み上げていって、現にその機能を1部置き換えるチップができつつあるんですよね。これには本当にびっくりしました。
押井人間の持っている記憶の総量というのをデジタルデータにしたときにすると、たぶん見当もつかない量になるんだと思うんですけど、最終的にそれが固定されたデータである限り、あんまり意味ないと思っているんですよ。例えばそれが何テラとかね、その上にいったら何ペタとかね、巨大な外部記憶装置、いわゆるハードディスクのお化けみたいなものに、記憶を全部移していったとしても、それをじゃどうやって検索するのかというね。人間の記憶って実は、概ね捏造するわけですよね。生存上都合のいいようにというわけじゃなくて、いやなことはなるべく忘れるように奥にしまいこんでしまうし、都合のいいことははっきり覚えているとかそういうことで。
だから人間の存在の大部分が記憶に依存しているんだとすれば、自分のオリジナルみたいなものは、実は記憶それ自体にあるわけじゃなくて、記憶を捏造する過程自体にあるんじゃないかという。いろんなデータを結びつけて、あのとき自分はどうだったああだった。あの人はこういう人だったとかね。自分はその人に対してこういう感情を持っていたとか、それは10年20年経つとやっぱり都合よく変ってくるわけなんですけど、そこの変ってくるプロセス自体が実は自分なんだという。
そのベースになっている人のソースというか、データソースそれ自体はフィックスであっても、実はそれを検索して結びつける段階で、必ず創作が入ってきているんだけど、これはいわゆるデジタルコンピュータでは不可能なわけですよ。実際にはでもコンピュータのほうでも、個々のデータを結びつける方法に関しては機械的なだけではなくて、いってみれば想像的な結び付け方を考えようとか、そういうアナログ的なものを作り出そうとしている人もいるわけですけども。
要するに自分の記憶というのは、記憶それ自体よりも、その記憶を蓄積すると同時に、消去している過程だと思 うんですよ。無制限に全ての状態を保存できないわけだから。機械の場合には人間が操作して不要なものをデービットしていくわけですけど、人間の脳の場合にはそれを無意識にそれをやっているわけですよね。その部分まではおそらくプロセスとして固定できないんじゃないか。人間にもしそういう固有性、機械的なものに置き換えきれない部分があるとすれば、そういうフィクションを作り出す部分だという。それはなにかといったら、現在の欲求のことですよね。
立花ああなるほど
押井現在の欲求自体はデータを蓄積することで導き出せない。やっぱり人間というのは、絶えず生まれ変わっていく存在だから、10年前の自分と今の自分は同じではないわけですよね。それは物理的にも同じでないし存在としても違っているはずだと。もしかしたら朝起きたときの自分と夜ベッドに入るときの自分は違うかもしれない。どこかしら共通部分があるとすれば、一種の快感の根本みたいな部分、欲求の部分でかろうじて自分という存在がフィックスされている。そこの部分がプロセスとして維持できるんであれば、例えば保存されたデータ自体が改ざんされてもおそらくだれも抵抗を示さないだろうと。人間というのはいってみれば、民主的な改ざん絶えず繰り返しているわけですよね。
立花そうですね。
押井だから人間的な機能が機械的なものでどこまで置き換えられるかということを自体にも興味があるけれども、いっそ置き換えられない部分が最終的に一個だけあると、わかるためにもというかね、それを明らかにするためにも、機械化可能な部分は、置き換えてしまった方が話が早いんじゃないかという考え方もあると思うんですよ。
元々記憶を外部化していくというプロセスには、便利だというだけではなくて、自分自身、人間の本質がそのことによってあからさまになるという面がある。だれでも「自分はこうだ」と固定した方が楽だからそうしたいわけだけど、なかなかそうはいかない。なぜ自分は好みとはいえ、この女の人を好きになってしまったのかとか、なぜこちらの仕事を選んでしまったのかとか、実は生き抜くことの大変さというのは、説明のつかない、いわば不合理なものによって決定されている。
でもその不合理な中で決定を下したのはあくまで自分なわけですよね。要するに自分に関してもよくわからない。よくわからないものをプロセスとして固定できるのかという、そういう話になっちゃうと思うんですよ。
立花今の話でね、リアルな世界と、人間が自分のメモリーを変えるみたいな具合にはいかない、決定論的なコンピュータの世界を、二項対立において考えるというのは、ちょっと違ってきているんじゃないかと。
押井それはあんまり意味ないと思いますね。
立花最近の取材で、ものすごいびっくりしたのは、脳科学の世界で、1個1個のニューロンの樹状突起の表面にものすごくたくさんある、シナプスが実は脳機能の本体だという話しです。そうなると、ニューロンの数は100億とかそんなもんだけれども、そのシナプス数えたらもう何兆なんてもんじゃなくて、さらにその数桁上とかそういう世界になるんですよね。
最新の脳科学ではね、神経細胞のの樹状突起上に並ぶシナプスそのものが、刺激によってどんどん形を変えていって、まさにそこに脳の中の記憶チップの1番の底にある記憶を担う構造部分が、目に見えるようになってきたということなんですよ。まさに、人間の頭の中の全てが刻一刻と、シナプスの部分がどんどん変化していくのが目で見えるんですよ。そこにその記憶の本体があるって、そういう研究をやってる学者がいるんですよ。そうすると、人間の記憶を保持しているメモリーは、何兆よりもっともっとすさまじい数で、さらに生きて動いて変わって働く状態にあるということがわかった。それを聞いてハハーッと思いました。コンピュータの世界がじゃあどうなるかといったら、やはりそうなっていくと。今量子コンピュータがかつて理論だけだったけれども、すでにリアルな世界にどんどん可能性として入ってきているわけですね。将来は必ずそこへ行く。そしてそこへいったら全く決定論的な世界じゃなくなっちゃうわけですよね。量子論の世界は決定論じゃないから。
だから、そういう非常にバイオロジカルに多義的で、いろんな可能性を同時に含むような世界へ入っていく可能性が、ものすごくありますよね。
押井そうですね。現在のデジタルコンピュータはの物理的な限界というのは、もうわかっているわけですよね。これだけの面積のチップ上にどれだけの組織を載せられるかというのは、物理的限界がはっきりわかっているわけですから。そうすると今度はいかにアクセス速度を早くするかということになっているわけだけど、電気的、電子的なものであれば、その速度の上限もはっきりわかっているわけですから。人間が記憶し、考え、無意識のうちにいろいろ行っていくという、要するに生活していくということ自体がいかに奇跡的な、規制以上の物理現象かということが明らかになって、それにどこまでコンピュータが迫るのか、ということが追求されるためには、より膨大で高速にということがテーマになって、素材や作動原理が全く異なるコンピュータが作られて、という風になるんでしょう。でも実は僕は、そういうことは人間にとってそれほど面白いことだとは実は思えないし脅威とも思わないんですよ。
むしろ、今生きている人間自体が、どこまでコンピュータに近いものなのか。つまりもっとはっきり言えば、人間とはどこまで機械に近いものなのか、それを明らかにするほうが僕は面白いと思うんですよ。
立花それはそのどういうコンテクストで。
押井つまり人間というのは、基本的には自分で意思して仕事をしたり生活をしたり、恋愛したりとか思っているかもしれないけども。実は自分が考えているよりもはるかにオートマチックな存在であって、そうでなければたぶん人間は生きられないだろうという。
朝起きてから夜寝るまで、自分の行動というのはね、実はほとんどの部分オートマチックになっているんじゃないかなと。だからこそ人間の脳は、オーバーフローしないんだという。歩きながらものを食べ、なおかつものを考え、あそこに、ああきれいな女の人がいくなとかね、そういうことまで処理速度は追いつかないはずで、実際には、いい女の人が歩いていて、そこに注目するときには咀嚼の問答は無意識化されている。そういうふうに人間というのはどこかしら、元々機械的に作動するようにできているからこそ、生存できてる。だからどこまでが人間というのは機械であり、ロボットと同じ材かという、その境界を明らかにすることの方が僕は興味があるし、面白いんじゃないかと思う。
映画の世界で言うとかつての、僕らがやっていたような、今アメリカではまだそういうことをやっているわけですけれども、ロボットがどこまで人間に近づいて、脅威になり得るかというのは、わりと僕は古典的なお話だと思っているんですよ。あんまり意味があるとは思えない。
かつて夢見られたマザーコンピュータみたいな妄想は、実現しなかった。その代りに実現したのはインターネットだったわけですよね。人間と人間を結びつけるという、そのプロセスの方がはるかに有効だったし、実際に権力化しやすい。
それと同じように、やっぱりロボットが人間にとって脅威になるということではなくて人間がどこまでロボットに近づくかということのほうがはるかに脅威だと思うんです。ある意味ではファンタスチックでもあるかもしれない。僕らが想像するよりもはるかにロボットに近い存在で、要するに人形、特定した自分の意思とかを発動する瞬間というのを、今不連続に体験しているだけであって、ほとんどの時間はいわば無意識に過しているとしてもね、おかしくないし、実際にそうだと思うんですよ。
自分自身の意識的な存在としての人間というのは、かなり怪しい部分がある。その怪しい部分というのを、プロセスとして明らかにすることができれば、たぶん人間はそのときに本質的に変るはず。我々が身体を抱えていく過程ではっきりと、境界線を引くことが可能になるのかもしれない。最悪の場合、と呼べるかどうかわからないけども、それが存在しないということが明らかになるかもしれない。

>>3 ゴースト

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