押井 | 結局、人間というのは、言葉と体で構成されているという。自分自身の存在はいつも言葉で考えているから、体の部分はほとんど日常レベルで意識されることはないと。体に対する意識は、例えば骨を折ったとか、怪我をしたとか、ものすごく吐き気がするとか、いわゆるマイナスのイメージでのみ発言する。人間はやっぱり肉体が絶好調のときには体のことは一切意識しないですから。若い人ほど体ということは苦手ですよね。年をとると体ということを考えざるを得ない、あちこち悪くなってくるから。調子が悪いことがベースになっていくのですよ。どうやって自分の体と相談した仕事をしようかと。 そういうレベルの中で、極端な、それこそ電撃のように意識される体というのは、実はあったと思うのですよ。例えば、一種の宗教的な啓示のようなものは、そういうことを指すのではないかと僕は想像するんですよね。むしろそれは常にあるんですよ。それを認識する手段が僕らにはないだけであって。その部分を明らかにしてくれるものとして考えられるのは、(例の電極のような)人工的な刺激ということもあるけれども、僕はやっぱり他者だと思うのですよね。 自分が好きで好きで仕方がない女の人をはじめて腕の中に抱いたときの、言葉にならない幸福感であるとか、うちに帰って犬を抱き寄せたときの、妙にこう体がすっと鎮まるような感覚というか、実際に血圧も下がるわけだけれども、自分で何かを確認したときに、はじめて感じる自分の体、体の状態というかね。それを体と呼ぶのであって、それらは、もともとの細胞のこととは違うのではないかと、と思うのですよね。 それ以外のものはある意味で、置き換えることを躊躇する必要はないのではないかと。鉄の体になりたいとは思わない。スーパーマンになりたいとも思わない。とにかく苦痛から逃れたり、不自由感から逃れたて、自分の体をもっと効率よくするといったことが必要なら、サイボーグになっても全然構わないと思うし、望み得るならば、自分の体を再構成するというか、再獲得するときに、動物という範疇でどこかで繋がってみたいというのはありますね。翼が欲しいと思わないし、エラがほしいとも思わないけれどもけれども、どちらかといえば尻尾が欲しい。 |
立花 | おおー(笑)。 |
押井 | 尻尾を振るというのはどういうものなのだろうか。意識する前から嬉しいと思わず振ってしまう。だから匂いがするだけでまず尻尾がピンと立つというね。あの感覚ってどんなものなんだというのを。その名残りはあるわけだけれども。僕は「幻想の尻尾」と呼んでいるのてすけれどもね。奥さんに見せたことがない幻想の尻尾というの。 |
立花 | (笑)。 さっきの話で、犬と神経を接続したいというその気持ちは、結局人間の恋愛感情というのはほとんどそれでしょう。どこかで神経を接続したいわけですよね、特定の相手と。電極の実験ですが、それをやったときに、ものすごくわかったのは、そういう、神経接続の世界というのは、今自分が感じているのはこの程度だけれども、この延長上にはなんかものすごい世界か開けるな、という感じを受けたんです。しかも原理的にはこれは全く実現可能な世界で、あとはテクニカルな発展ひとつでそこがどんどん発達していく可能性があるんだということを、実感としてそのときにものすごい感じたのです。 |
押井 | かつては、そういう神経感覚って、宗教的体験に近いものだったのではないかなと思う。修行したり体を痛めつけたりね、一種の苦行の果てに到達したある種の神経感覚というか、あとは神様が下りてくるであるとか、体の獲得したそういうものを、例えばチップを埋め込むことによって直ちに獲得できる可能性があるのではないかと。 そういうものであるとすれば、確実に人間の存在というのは変化せざるを得ないし、未知なものを獲得する段階に入る。今まではイデオロギーであるとか、同じような意味合いでの宗教は、創始者というか元締めには獲得できたとしても、ほかの人たちには到達できない部分があったわけですよね。でも一挙にそこにいけるとしたら、そういうようなテクノロジーというものがもし可能性を持つのだとすれば、宗教でもイデオロギーでも不可能だったことが可能になるという意味で、人間を確実に変える。というか、逆に言うと、それぐらいしか可能性はないのじゃなかろうかというふうに思って。 結局、言葉というのは、人間を定義付けるというか、さまざまなことをやってきたわけだけれども、一見して知らしめるという、そういう言葉がもしあったとすれば、宗教が言うような最後の啓示のようなこと、神の一言みたいな奴ですね。それはおそらく言語という形で獲得されるのではなくて、薬を含めての、テクノロジーによってではないかと。 |
立花 | そうですね。薬は別のチャンネルを使って同じようなことをやっているわけですね。それで、脳の中に電極を埋めるというようなことが、これは当座は医療目的だけどやっているわけですね。それによって、とてもその普通の治療では治らないような病気が治るとか、目が見えなくなった人が見えるようになるとか、いろいろなことが可能になっているわけです。 究極どこまで行くかというと、そこを刺激すればこういうことが起こるということがわかると技術的にはすべて可能になるわけですよ。天の啓示を受けたりとか、もう普通の肉体的なハッピネスとは桁違いの、精神的なハッピネスの頂点みたいなものについて今おっしゃいましたけど、実はそういう感覚が脳のどこから得られるかというのは、場所的にはわかっているんですね。そうすると、そこに作用する直接の電極を入れるかどうかは別として、いろいろな形式で電気刺激する。あるいは磁気刺激する。あるいは薬物を使う。いろいろな方法でそこの部位を刺激すると、まさにそういうところへ行く可能性があるわけですね。おそらく、そういう喜びを得た人は、やっぱりその喜びを繰り返し得たいという目的でその刺激を受け続ける。サルの実験で、いろいろなそういう喜びを味合わせると、もうとにかく自分の肉体が破壊するまでやっちゃうみたいなことがあるんですが、その極限にあるのが押井さんの「アヴァロン」の中に出てくる脳がぶっ壊れた人たちですね。あれを見てね、下手をするとそういうことが可能になった後の人間社会というのは、ああいうふうに脳がぶっ壊われた人たちが、サナトリウムみたいなところに並んでいるみたいな、そういう悪夢のようなな世界を現出する可能性ってすごくあるのではないかなという気がしたのですけれどもね。 |
押井 | あると思いますよ。というか…。 |
立花 | 病院にいないだけで、すでにその辺に脳のぶっ壊れた人が結構いますよね、日本でもね。 |
押井 | 今でも脳のぶっちぎれちゃう人がいるわけなんだけれども、もともと人間の存在それ自体がね、実はオーパースペックで、物理的な存在としての許容度を超えて存在し得る体というね。刺激とか快感とか欲望それ自体が、人間の本来もっているスペックを遙かに超えているから、勝手にオーバーフローしてしまうという。それが物理的に生存可能なのは何故かと言ったら、限定された肉体の中に保管されているからだというのですね。この体の制約がなくなった瞬間から違った社会に移行するはずだから、それに果たしてこの肉体が耐えるかという。 |
立花 | 先ほどのゴーストというのは、実はそのオーバーフローした部分で、その個々人のオーバーフローした世界が結合した一つの大きな世界みたいのがある、そこへこう入っていくみたいなのね。そういう可能性というのは本当にすごくあるという気がしましたけれどもね。 |
押井 | あると思いますね。そのことで破滅する可能性も同じくらいあるということですね。それは技術がどう用いるかとか、技術がもっている善悪の両側面とか、そういう感じというよりは、人間が本来持っているスペック上の問題だという気がしますけれどもね。 社会学的に言っても同じことをやってきましたから。宗教やイデオロギーは本来、人を幸福にするかどうかは別として、人にとって必要なものだとして普及したにもかかわらず、モラルとして結果的に何をもたらしたかといえば、同じような大虐殺であったり不寛容であったりとか…それと同じことが起こると思いますよ。宗教はもともと一つのものなのだから、両側面とかという話ではない。それと同じで、技術というのはそれ自体モラルとも人間の存在とも関係ないわけですよね。だからこそ人間にとって有効なんであって。 僕はでも、そういうふうな神経上のオーバーフロー現象というかね、要するに必要以上の幸福感であるとか、必要以上の快感であるとか、そういうのを未然に防止するのは同じくテクノロジーの問題だと、思いますけれども。そこにいったら必然的にそうならざるを得ないのであって、だから物理的サイボーグというのは依然として必要なんだというふうに思います。 神経系だけを開発するとかいうことが、一種の破滅的な様相を帯びてくるのは、それがとまらなくなるからだという。神経系だけを解放するということは、基本的には必ず破滅することになると思っています。それに耐えた人間は、おそらく偉大な宗教家になるんだという。 |
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