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当日の様子

今回、私はこの講座を主催している松田良一助教授に「素晴らしい先生の講演がある」と声をかけていただいて出席することにした。

30分前に会場の教室に到着してみると、教室に高校生が2,3人まばらに座っている。せっかく来たのだからと前のほうに座って待っていると、10人、20人と人が増え、開始五分前には高校生に囲まれてしまった。私はこの公開講座が高校生対象であることを知らなかったために、高校生が続々とやってきたのを見て大変驚いた。彼らの制服から様々な高校の生徒が講演を聴きに来ていることがわかった。更に、今回は多元ネット配信によってSato博士の講演が香川県丸亀高校、愛媛県今治西高校、岡山県倉敷青陵高校に生中継され、会場にも広い教室に大勢の人が入っていた。

時間になると、講演が生中継されている3校に映像や音声が届いているかを確認するため、松田助教授が「聞こえていますか??聞こえてたら手を振ってください。」と言うと、スクリーン上の3校の生徒達が元気に手を振って答え、会場も盛り上がっていた。その後、松田助教授がSato博士について口頭で紹介し、講演が始まった。

Gordon Hisashi Sato博士について

Sato博士は日系アメリカ人3世で容貌は日本人と変わりないが、1927年にロサンジェルスで生まれ、そこで育ったため英語でお話になる。講義では松田先生が通訳をしてくださったので高校生でも十分に理解できた。今回はブループラネット賞受賞のため来日なさっていたところを、滞在期間を延長してこの講演に出てくださったそうだ。

ここで、Sato博士の生い立ちを軽く紹介したい。

第二次世界大戦中、日系アメリカ人はカリフォルニア州の砂漠地にあるマンザナール日系強制収容所に2年間強制収容され、Sato博士はそのときまだ15歳の高校生だった。しかし、このときの経験が虐げられた人々への共感を生み、また砂漠のような不毛な土地でどのように食料を生産するかを考えるきっかけとなった。

Sato博士は現在の成長因子研究に不可欠である無血清培養法を確立し、分子生物学の発展に大きく貢献するなど研究でも成功をおさめ、ノーベル賞候補ともいわれた。しかし、Sato博士は1992年に研究生活を引退し、40万ドルの私費を投じてマンザナール・プロジェクトを立ち上げたのである。

文責:平山 佳代子

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