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ガリレオ工房立ち上げ

物理教育実践検討サークル

その当時、僕は自分が中心になって、理科授業研究会という研究会をやってました。この研究会には、左巻君というもう一人の中心がいた。 彼は、今かなり活躍してて、検定外の理科の教科書をかいたのが中学で売れたり、ブルーバックスでも高校用のを出したりしています。

その左巻君と一緒にやってたんですけれども、中学の先生の研究会にいろいろ出てみてわかったのは、あんまり偉い人がいると勉強にならないということ。 それで、偉い人のいない若手だけの研究会を作って、全部自分たちで理論を再構築して、授業プランを作っていろんな人に実地してもらうっていうのをやることにした。授業をどうやって作ったらいいかというのをそこで学ぶんですね。でもみんな忙しくなってきたんで、そこは終わりにして、それぞれ新しい研究会を作るっていうことになって、僕はガリレオ工房をつくりました。

一番最初は物理教育実践検討サークルという名前ですが、メンバーが覚えられなくて、いずれ変えようとしてました。 この研究会は、いい授業を作ろうという目的で始めました。 米村でんじろうさんは、この第一回目から参加してたんですが、その当時、高校の低辺高って、すごい苦労してました。教室に入ってこない、入ってきても、騒いでて授業にならない。米村さんもどうしようもなくて、静かにしたら飴をあげる笑。そうでもしないとできないっていう時期があったんですけね。 それで、授業を変えるのには、実験はすごく大きいなと思ったので、毎月5つ実験を勉強しようというのが、僕がこれを作った目的のひとつでした。 それに自分が勉強するためにだったら、続くだろうと。他の人がいなくてもいいんです。いろんな実験をもってって、一人ででもサークルをやれば勉強になる。まぁ、そういうことは一回もなかったですが。

みんなが持ってきたのは、最初は数ページだったんですが、一年目くらいから、20何ページの通信を出すようになりました。今もずーっと続いてるんですが、最初の10年くらいはほとんど一人で作ってるんです。書くと勉強になるので、他の人の実験も全部自分が書いていました。人のためではなくて、自分のためにやろうというので、どんどん勉強しようと思っていたんです。 僕が一年で50から60、2年で100くらい実験するとすれば、20年で1000くらい実験できる。物理で1000の実験をちゃんとできるようになってれば、そのうち世界でもトップレベルになるだろうと予想して始めました。 このときは、全然実験ができなかった段階です。

ガリレオ工房の例会には、イギリスに行ってる1年間と、一回だけ修学旅行で出られなかった時以外、ここは僕のベースだと思って、どんなことがあってもでました。 ほかにも絶対にでる研究会はいくつかあります。例えば、理科カリキュラムを考える会。そういうのは欠席しないで、自分が支える。自分のためですから、いろんな人が僕に教えてくれる研究会だとおもって欠席しなかった。

さて、そのうち、米村さんがものすごい飛びはねたすごい力を発揮しはじめました。毎月新しい実験をもってきて、しかもそれは世界のレベルで見てもすごいと思うようないい実験なんです。大体毎月1時間、米村講座というのが何年もつづいた。米村さんがガリレオからいなくなったら、ガリレオはつぶれるんじゃないかと思うほど、ガリレオの初期の実験のほとんどは米村さんがベースになってました。

ところが途中から、岩手高校の佐々木俊一さんが、毎月岩手からやってくるようになって、その方もすごい実験を開発しました。そのほかにも、研究会にはいろんな人がみえるようになりました。筑波大学から毎回学生がくるようになって、終わってから12時過ぎのバスで帰る。ガリレオ工房の研究会にいくと、研究がどういうふうに進展していくかが分かるっていうんですよね。僕らはアイデアをだし、もっとこういうふうに工夫したらいいんじゃないかっていう意見をいって、翌月そのアイディアで他の人が作ってきて、またそれをさらに改良して、他の人がもってくる。筑波大の学生は自分は教育者になるつもりはなくて、研究者になるんだけれども、研究の原点が見えるので研究会にくるんだ、って言ってました。 なかなか大学で研究の原点は教えてくれないし、学会にいっても、一番大切なところが隠れてる。教育の研究会というのは、開発の仕方がすごく見えるんですね。


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