廣松渉「世界の共同主観的存在構造」
廣松渉(1933〜1994)は、日本の哲学者。1940年代後半より政治活動に関わる一方で、日本における数少ない真の哲学者と評されるように、極めて綿密な理論立てで独自の哲学を説いた。
「世界の共同主観的存在構造」には、幼児がリンゴに手を伸ばす友達を見つめる状況について、以下のようにある。
かの「遠隔的に操縦」される身体的自己とそれを操縦する能知能動体との二重的存在(注1)の意識が既成のものとなり、他人をもそのような存在として了解する事態が生じたとすれば(注2)その段階では、第三者的に記述する立場から、「他人」が「能知能動体的主体」として覚知されるに到っている、と呼ぶことが一応は許されうるであろう(注3)。
注1: 人が身体を操縦するとき、操縦される「客体」としての身体(=身体的自己)と、操縦する「主体」としての人(=能知能動体)は、共にその人を指している。その人は、主体と客体の二通りの意味において存在しているので、ここでは「二重的存在」と言い表されている。廣松は、主体と客体を非同立的なものとしては捉えず、二項対立図式の内で描かれることの多いそれらを敢えてまとめて扱うことを好んだ。
注2: リンゴを前にした友達は、幼児がもし彼と同じ状況にあればおこなうであろうのと同じ行動(=リンゴに手を伸ばすこと)をしている。この事態によって、幼児は、友達を主体的自我(=そのような存在)として了解できる。
注3: 第三者的に記述すれば、幼児(=自)から見た友達(=他)が、「能知能動体的主体」として覚知されていると言える。ちなみに、引用箇所は、自と他に関する考察の導入部である。
映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」で描かれる「人形使い」の実体は能動的に活動するプログラムであり、その身体(義体)はネットを介して常に遠隔的に操縦されている。プログラムを「能知能動体」として、義体を「『遠隔的に操縦』される身体的自己」として捉えると、身体と精神をはっきり裁断している本著の引用部分は「人形使い」のことを描写しているふうに読める、というのが、対談後編冒頭での櫻井氏の指摘である。
第三者的に見て、「遠隔的に操縦」された義体は、能知能動体的主体として知覚される─つまり、人形使いが操っている義体は、あたかもその内に意識が宿っているかのように認識される。義体はただの操り人形であるにも関わらず、そこに意識があるように思えてしまう─という見かけと実際の乖離が、ここには表出している。
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