(3) 人工眼:イエンス・ナウマン
あの番組の各インタビュー場面は、いずれも相当の時間をかけて行われたが、番組で使ったのは、ごく短い断片的部分だけである。テレビ番組は時間枠にしばられるから、どうしてもそうなる。取材しても伝えきれなかった情報のほうがはるかに多いのである。
人工眼のイエンス・ナウマンさんを例にとって、その一端を説明しよう。あのくだりは、いきなりピアノを弾く場面からはじまったから、あの人工眼で鍵盤を見ながらピアノを弾いているものと思った人もいるかも知れないが、そうではない。イエンスさんは暗譜で弾いているだけで、鍵盤は見ていない。ピアノを自分で弾く人はよく知るように、暗譜した曲であれば、たいていの人は、鍵盤を見ないで弾けるものである。
イエンスさんは、もともとピアノが弾けたわけではなく、目が見えなくなってからピアノを覚えた人なのだが、耳がよかった人なので、ピアノを弾くことをマスターしただけでなく、ピアノの調律まで覚えて、調律師として生計を立てていた人なのである。
イエンスさんが使っている人工眼の能力では、番組の中で示したように遠くにあるかなり大きな納屋の存在すら識別できないくらいだから、ピアノの鍵盤を見ても、黒鍵全体と白鍵全体をかたまりとして識別することがかろうじてできるくらいで、個々の鍵を識別することは全くできないのである。
番組で紹介したように、イエンスさんの人工眼は、光点で外界を識別する仕掛けになっていて、はじめは光点が百個あったのに、いまはシステムの老化で、光点がわずか6個しか働いていない。光点が少なくなったから、鍵盤が見えなくなったのではなく、光点が百個あったときも、ピアノの鍵の一つ一つ識別できるほどの解像能力はなかったのである。
あの人工眼のシステムでは、言葉の通常の意味で、ものが見えるようになったとはとてもいえないレベルにしか達していない。
番組で紹介したように、あの人工眼を作ったドーベル研究所は、所長のドーベルさんが死んでしまったために、人工眼のメインテナンスもできず、システムの劣化によって性能は落ちるばかりである。
イエンスさんを取材して、話を聞くほど、あの人工眼体験は、気の毒な体験というしかないほど、不運が積み重なっている。
あまり紙数を費やす余裕もないので、イエンスさんのインタビュー記録から、断片的に不幸な背景事情を拾いだしてみると、次のようなことがあげられる。
- メンテナンスできない
- 絡まっちゃって困るなあ
- ケーブルをつなぎ間違うと発作
- 1日に1時間
- 縁しか見えない
- テロリストに間違われる
- 遠近の差がわからない
- 二度の事故で両目の視力を失う
- 子供の顔が見たかった
メンテナンスできない
ナウマン | 本来なら、使用開始から6ヶ月以内にメンテナンスをして、 さらに改良を進める手はずでした。 しかし残念ながら、責任者が老齢で、 重病になってお亡くなりになってしまった。 そのためメーカーが今、機能していないんです。 |
立花 | それはたいへん困ったことですね。 |
ナウマン | でも、ほんの少しでしたが、私はものを見ることができたんですよ。 |
立花 | 本当ですか。 |
ナウマン | ええ。 丸い光点が適当な距離をおいて 幾つか並んでいる様子を想像してみてください。 こんな光点が私の視野にちりばめられていて、 制御装置はこのうち特定の幾つかだけを拾うのです。 たとえばあそこの階段の縁を見たい場合、 縁の部分に該当する光点しか拾わないのです。 私の視野に光点が散らばって見えるんです。 光点のグループがここに一つ、あちらに一つという具合に存在して、 それらが総合的にある画像を形成するという仕組みになっているのです。 |
絡まっちゃって困るなあ
ナウマン | まず、装置の各部を一つ一つご説明します。 コンピュータには、マイクロプロセッサーのペンティアム166を搭載しています。 これがすべての画像を処理します。 映像捕捉眼鏡もここにつながれているのです。 この装置の中にはいろいろなものが納められていますが、一見の価値がありますよ。 これが視覚を促す刺激媒体です。 ワイヤーがいろいろありますが、これを私の頭につなぎます。 このコンピュータが画像を処理し、どの画像を映像化すべきかを選択した上で、 刺激媒体が私の頭に刺激を送り込むのです。 電流は交流で、5ミリセコンドのパルスで電流が送り込まれます。 ちなみに光点一つを見るには5パルスが必要です。 それでは、ワイヤーを頭につないでみましょう。 よく見ていてくださいね。 この操作は通常のコンピュータをつなぐ場合とかわりありません。 ドライバーでねじをしっかり固定します。 このシステムを利用する場合、ドライバーとねじを上手に使いこなすことが大切です。 視力を失った人々の中には、これができないために、 人の助けを借りなければならない人もいるんです。 でも私は他の人の世話にはなりたくありません。 ……これで一つ固定されましたね。そしてこちらも……。 この作業はちょっとやっかいです。 いろんなものが絡まっちゃって困るなあ。 これらのケーブルの先端を踏みつけないように細心の注意を払う必要があります。 これらのケーブルは、一本が1000ドルもするんですから。 |
立花 | えっ、そんなに高いものなんですか? |
ナウマン | 壊してしまったら1本につき1000ドルの損害です。 大変な金額です。さて、これをここに装着して……。 |
立花 | お手伝いしましょうか? |
ナウマン | いいえ、一人でちゃんとつなぐことができます。 万事うまく運ぶからよく見ていてください。 ただし時間はかかりますよ。 頭を痛めないように気遣いながら作業しますから10分くらいはかかります。 さあ、できました。すべて完璧ですよ。 |
立花 | 重さはどのくらいあるんですか? |
ナウマン | 5キログラムです。 でも今は電池が入っていないのでそんなに重くありません。 電池を入れた途端に重くなります。 さて次にこれを背中に付けます。 そして次にケーブルを取り付けます。 このサイズ1/16のアレン・レンチを使って、 私の頭から小さな蓋を二つはずさなければなりません。 取り外した蓋は紛失しないように気を付けます。 差込口がよく見えるでしょう。 これが装置と脳との接続の接点になるのです。 髪の毛が入り込まないように注意しなければなりません。 さて、二つとも蓋が外れました。 次にドライバーで正しい部位を探り当てます。 |
ケーブルをつなぎ間違うと発作
ナウマン | 片側には反対側と異なる刺激を与えなければなりません。 もしこれを取り違えると大変です。 2002年12月、実際に事故を経験しました。 ドーベル博士が間違えたんです。 |
立花 | えっ、それはどういうことですか? |
ナウマン | ドーベル博士があべこべに刺激を与えたんですよ。 それで私は発作を起こし、ぱったりと床に倒れて気を失ってしまったんです。 ドーベル博士がスイッチを入れた瞬間、 巨大な手袋で頭全体を締め付けられたような感じがして、 それっきり意識がなくなりました。 さあ、これから、ケーブルをつなげます。 見ていてください。 |
立花 | 何から何まで、いつも一人でやってしまうんですか? |
ナウマン | ええ、誰にも助けてもらいません。 これは人に助けてほしくないんです。 これは私自身の頭、いわば我が子のようなものですから。 それでは、しっかりと締め上げて固定します。 |
立花 | そんなふうにして痛くはないのですか? |
ナウマン | 余り痛くはありませんね。 でも、この部位はどうしても敏感になっています。 完治しているわけではないので、当然ですが。 |
立花 | ワイヤーは何本通してあるんですか? |
ナウマン | 72本です。 |
立花 | そんなに! |
ナウマン | ええ、そしてこれだけで32本あります。 ほら、できました。これで片側がつながりました。 次はこちらをつなげます。 このかわいらしい、小さな装置、これを常時装着していれば、 その都度頭からはずす必要がなく、摩耗も防げます。 でもこれを装着していることはとても苦痛です。 ともすれば突き出てこようとすることがあるし、 何より外観が異様です。 だから、これを装着することは好きではありません。 おわかりでしょう、 誰だって少しでも格好よくありたいですよ。 私はいつもコートを羽織って装置が人の目に触れないようにしています。 これから電池を取り付けます。 電池はリチウム・イオン電池で、電圧は16ボルトです。 |
1日に1時間
立花 | その電池で、どれくらい稼働させられますか? |
ナウマン | これでこのシステムを3時間半だけ稼働させることができます。 |
立花 | たった3時間半だけ! |
ナウマン | ええ。そんなに長時間はもたないのです。 光点が見えなくなってきたら、もうそこで時間切れなのです。 それに、この製品はあまりできがよくありません。 装置が肩からずれ落ちてしまうのです。 私はこのシステムを稼働させるのは一日に一時間だけに短縮しました。 私は幾つかの操作ボタンを取り付けました。 ドーベル博士は賛成ではなかったようですが、 私はあえて取り付けてもらったのです。 このボタンを使えば、 スイッチを入れてから強度を最低値まで引き下げてゆくことができ、 そのまま最高値まで引き上げてゆくこともできます。 おかげで、たとえ刺激の与え方を取り違えても、 発作を起こさずに済むのです。 さあ、スイッチを入れましょう。 通常のコンピュータと同じように、 装置が起動してピイッと鳴るのを待たなければ鳴りません。 音声はまず四回、続いて二回鳴ってやっと装置が使用できるようになります。 だから、かなり長い間、待たされます。 |
立花 | ボタンが二つありますね。 役割の違いは何ですか? |
ナウマン | 左右の電圧を変えるために、右用と左用のボタンがあるのです。 |
立花 | 電圧の領域はどれくらいですか? |
ナウマン | 左右それぞれ別の電圧水準の領域を持っています。 関係事務所か研究所に行くと、ケーブルをつながれて測定を受けますが、 技術者はまず0.5ボルトの電圧からスタートします。 その後、1ボルト、2ボルトと段階的に電圧を上げてゆきますが、 被験者は視覚的に映像を認知でき次第、技術者に「見えました」と伝えます。 すると今度は映像がほとんど見えなくなるまで、電圧が引き下げられ、 この水準で技術者が「この電圧が特定のフォスフィーンの閾値である」 と定めるわけです。 フォスフィーンの電圧水準は一様ではありません。 フォスフィーンの電圧領域は0.5ボルトから19ボルトまでと、 非常に広範囲におよんでいるからです。 |
立花 | 先程、電池の電圧は16ボルトとおっしゃいましたが。 |
ナウマン | ええ、申しました。 この電池はいわゆる「直流-直流コンバーター」の機能を備えていて、 コンバーターがコイルの力で振動し、インダクタンスがこれを増幅させた後、 一端逆転修正され、より高圧の直流に変わるという仕掛けです。 この電池は三種の動力を提供します。 第一がコンピュータの動力に5ボルト、 第二が刺激を与えるための動力に20ボルト、 そして第三が眼鏡のために使用する動力で、これは9ボルトから12ボルトと思われます。 さあ装置が起動しました。 たった今ピイッという音が聞こえました。 これから電圧をゆっくり上げてゆこうと思います。 電圧に対する脳の限界値は毎日変わるので十分注意することが必要です。 私の場合も毎日変わっています。 光点が見えてくるまでゆっくり頭を動かします。 ああ、もう最高値に届いたのかな、光点が見えています。 立花さんがそこにいらっしゃるのも見えていますよ。 うまくいきました。 |
立花 | いま、私が見えているのですか。 |
ナウマン | ええ。 ただしあちこちに散らばって見える光点の集合体としてしか把握することができません。 あなたがそこにいらっしゃるとしても、 私が認識できるのは輪郭だけだからです。 テーブルの縁が見えます。 光点は6個しかありませんが、今は6つすべてが見えるわけではありません。 手をもっと動かしてくださいますか? ああ、左の方にやや電圧の高い光点が1個見えました。 |
縁しか見えない
立花 | いま光点は幾つ見えていますか? |
ナウマン | 今は三つです。 頭を少し動かすと、あと三つ見えてきます。 ですから全部で六つ見えるわけです。 今、窓のあるところとあなたのたっていらっしゃるところに 小さな光点が絶えず見えてきています。 それに、あっちのほうにも何か見えます。 それが何か確認はできないんですが、何かが見えます。 突き当たりの壁の縁ではないでしょうか。 まあ、眼鏡を使用して基本的に認識できるのはこれですべてだと思いますよ。 |
立花 | このテーブルも見えますか? |
ナウマン | テーブルですね? ええ、見えますよ。 テーブルの縁が見えます。 見えるのは縁だけなんです。 |
立花 | 椅子は見えますか? |
ナウマン | 椅子ねえ……。 ここに椅子があるとは思えませんけれどねえ。 いや、やっぱりそちらに一脚ありますね。 ウーム、眼鏡を少しばかり調整してみましょう。 この眼鏡はうまく映像を捉える場合もあれば、 全く機能を果たしてくれないこともあるんです。 理想的なのは、白っぽい背景の前に色合いの濃いものがあるのを見る場合か、 逆に色合いの濃い背景の前に白っぽいものがあるのを見る場合なのです。 つまり、この眼鏡はコントラストのはっきりしたものを捉えるのが得意なのです。 だから、「これは明るいもの」「あれは濃いもの」などと、 色合いの度合いをありのままに区別して捉えることはないのです。 |
立花 | 私の腕は見えますか? 今ちょうど動かしているのですが。 |
ナウマン | ええ、ええ、よく見えていますよ。 |
立花 | 本当に? |
ナウマン | ええ。 突然、閃光が二つ見えましたが、 すぐに消えてしまいました。 それは何かが動いたことを意味しているのです。 眼鏡が順調に作動すると、 すべての点をよく捉えることができるので本当に面白いのです。 |
テロリストに間違われる
ナウマン | これ、時限爆弾に似ているでしょう? 2001年9月11日に起きた ニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件以前に作られたためもあって、 今ではまるで自爆テロ犯の爆弾みたいに見えるんですよ。 これを身につけているとまるで爆弾ですよ! そんなふうに見えませんか? だから、今これを装着して、 町に出たり、電車に乗ったりするには時期が最悪なんですよ。 |
立花 | そうですね。 逮捕されそうですね。 |
ナウマン | いや、見つかり次第、射殺されると思いますよ。 だから、新しいシステムは、現存のものの半分のサイズしかないそうです。 ところが、これを製造しようとしても資金がなかったのです。 たいしたことじゃないかも知れませんが、 ご覧のようなワイヤーを身につけている私にとっては、とても悲しいことです。 ややこしいものがこんなにまつわりついて……。 いつの日か、このような状態から逃れたいんです。 せめて、このシステムを無線方式にしたいと考えています。 そうすれば少なくともいろいろな器具を体につなぐ面倒がなくなりますからね。 |
遠近の差がわからない
ナウマン | あの木のところまで進んでまたここまで戻ってきましょう。 いま、ワイヤーが横に張ってるのが見えています。 ただ、私には遠近の差がわからないので、 ワイヤーの正確な位置はつかめません。 私にとってあのワイヤーは、意外に近いところに張ってある可能性と、 非常に遠方に張ってある可能性の二つ考えられるのです。 歩くときには杖を前方に突き出して、その所在を確かめた上で、 そこへ近づくようにしています。 対象物がどの程度自分から離れたところにあるのか全くわからないからです。 立花さんにはコントラストの存在が認識できているかもしれませんが、 私の場合、わずか100ヤード離れただけでもコントラストが失われ、 この眼鏡は役立たずになってしまいます。 たとえば非常に遠方の景色を眺める場合を想像してみてください。 遠くの山々の色が青く変わって ほとんど空に溶け込んでしまっている状態を経験したことはありませんか? 私の場合、それと同じ現象が起こっているのです。 この眼鏡はそこに立っておられる立花さん、 あそこのソーラー・パネルなど、 見る対象が近距離にある場合にしか使えません。 遠方にあるものについては全然役に立たないのです。 唯一の例外は、太陽が低い位置で私の真後ろにある場合で、 この場合は眼鏡が機能します。 でも私が向きを変えて太陽の方向に歩き出すともうダメです。 逆光で写真を撮るとどうなるかよくご存じでしょう? 眼鏡を太陽に向けるや、 突然何も見えなくなるのです。 あなたは自らの視力を巧みに調節していると思いますが、 普段使い慣れているカメラにはそのような調節ができませんね。 私の場合も同じなのです。 |
立花 | ご自分の家が見えますか? |
ナウマン | 屋根のごく一部が空に向かって突き出ているのがわかります。 屋根のごく一部だとは思いますが、 単なる木を見ている可能性もあります。 我が家をはっきりと認識するためには もう少し多くの光点が必要です。 100個の光点をすべて利用できたいた頃には、 私は自動車を降りてから、我が家に入る前に、 建物の建っている場所を認識することができていました。 でもいまでは光点のほとんどがなくなってしまって本当に残念です。 それでもあそこに何かがあることはわかります。 我が家の建っている場所は、 最も私に近いところにある認識可能な事物をどうしても確認したい場合、 光点が見えるようになる距離まで歩いてゆくほかないのが現状です。 |
立花 | 樹木は見えますか? |
ナウマン | いま、あそこに木が一本立っているのが見えます。 なぜあの木がわかるかというと、 枝が少し揺れているのが見えるからです。 枝が揺れて動くたびに、閃光が走るのです。 |
立花 | 家畜小屋はどうですか? |
ナウマン | はて、見えませんね。 あれ、 ……そうだ、あそこ、あそこに何かがあります。 |
立花 | そう、そう。 |
ナウマン | でもあれは一体なんですか? 全くわかりません。 いずれにしても、新しい装置が必要なことは間違いありません。 ある時はよく見え、ある時はよく見えないというのでは困りますからね。 |
立花 | 家に近づいていただけますか? |
ナウマン | わかりました。 これから家に近づいてゆきます。 ……はい、この通りです。 |
立花 | (家の中で窓越しに外を見ながら)こちらの方向は見えますか? |
ナウマン | ウーン、あそこに何かがあります。 でも、さっきから装置の調子が……。 あそこに何かが見えます。 ときどき立花さんの頭の一部が見えます。 ところであなたは明るい色の服を着ていらっしゃいますか? |
立花 | ええ。 |
ナウマン | ああ、そのためにあなたの姿がそこに見えないんですよ。 いま、あなたの左側に何かが見えています。 でも「何かが見えているのを感じます」と表現した方がいいかもしれません。 というのも、この装置もそろそろ調子が悪くなってきましたから。 タイマー節約のためにそろそろスイッチを切りたいのですが。 もうすぐ時間切れになるものですから……。 |
二度の事故で両目の視力を失う
立花 | 視力を失ったときのことをお話しいただけますか。 |
ナウマン | 最初に失ったのは左目で、 1981年に線路で仕事をしていたときでした。 私の仕事は、鉄道線路から不要物を取り除いてきれいにしておくことだったんです。 線路と線路の間一面に氷が張り付いていました。 電車が通るときに線路の幅を広げないように 内側の氷を取り除いていました。 つるはしを打ち下ろしたとき、先端が線路の表面に当たり、 ボタンくらいの大きさの小さな金属破片が目のなかに飛び込んできました。 奥の方までずっと入り込んで脳に達しましたが、 脳は傷つきませんでした。 開いた穴を通して磁石を入れて破片を取り出しましたが、 目はダメになりました。 それで片目になりましたが、支障なく生活していました。 |
立花 | 二度目の事故は? |
ナウマン | あれは1983年、20歳のときでした。 スノーモービルの修理中、 エンジン回転を上げて、なぜクラッチが閉まらないのかと 不思議に思いながら傍に立っていたんです。 そのとき突然、クラッチから金属破片が飛んできた。 ファイバーグラスのボンネットを突き破って飛んできました。 それで右目は完全にダメになってしまったのです。 |
立花 | そうだったんですか。 |
ナウマン | それから一年後の1984年、 左目がかすかに見えるようになりました。 それで、手術を受けにトロント市のセント・マイケル病院へ行ったんです。 医者は、手術で視力はいまよりよくなる可能性もある一方、 いまの視力を失う可能性もあるといいました。 手術の結果は悪く、完全に盲目になりました。 それ以来18年間、真っ暗闇でした。 |
立花 | 視力を失う直前の仕事は何でしたか? |
ナウマン | 測量技師でした。 土地の小区画地の測量です。 建物の土台が正しい位置にあるかどうかを確かめました。 私は測量機器の担当で、 監督もしていました。 とてもいい仕事でした。 |
立花 | 全盲になってからは、どんな仕事をされましたか。 |
ナウマン | 視力を失った直後にピアノの調律と修理をはじめました。 隣人がやり方を教えてくれたのです。 お金を稼ぐためにその仕事をしました。 いまでもしています。 |
立花 | なるほど、道理でピアノがお上手だと思いましたよ。 |
ナウマン | ピアノを習ったのは視力を失ってからです。 |
立花 | 子供の頃には習わなかったのですか。 |
ナウマン | ほんの少しだけ習いましたが、本格的に習ったのは視力を失ってからです。 妻と一緒に習いました。 視力を失ったときはまだ新婚でした。 視力があったのは結婚後の7ヶ月だけです。 突然夫が盲目になったのですから、 彼女も辛かったのでしょう。 それで、妻も私と一緒にピアノを習ったのです。 いま、彼女はピアノの先生をしています。 私もピアノの先生ができたらと思いますが、 視力がないと教えるのは難しいでしょうね。 生徒が楽譜の読み方を習いたいときは、 見えた方が効果的に教えられるでしょう。 でも、いつか大きな街で弾ける機会に恵まれればと願っています。 |
立花 | 耳はいいのですか。 |
ナウマン | はい。 でも普通の人の聴力と変わりません。 ただ、聞こえてくる音には普通の人より敏感です。 いま、車が通りすぎる音が聞こえてきました。 3台通り過ぎました。 近くの木にいる鳥のさえずりが聞こえます。 音を聞いたとき、目の前に映像が浮かびます。 聞こえる音すべてが絵になります。 |
立花 | ピアノを修理するには、 小さなドライバーなど沢山の道具を使わないといけないですよね。 |
ナウマン | ええ、全部分解して組み立て直すこともあります。 |
立花 | 本当に視力を失ってからすべて身につけたんですか? 誰にも習わずに? |
ナウマン | ええ、独学です。 一度隣人が私のピアノを調律してくれました。 それで私も調律を覚えることにしたんです。 100ドルで古いピアノを買って、 繰り返し学びました。 |
立花 | すべて独学ですか。 |
ナウマン | ええ。 何もしないで座っているのが嫌いですから。 働きたいのです。 手でモノを触り、知り続けたいのです。 |
立花 | 視力を失って、その後の人生についてどう考えましたか。 |
ナウマン | 死んだ方がマシだと思いました。 非常に困難な時期でした。 |
立花 | いまはどうですか。 |
ナウマン | まだ、そうです。 周囲の人は皆、私の能力を同等とは見なしてくれませんから。 誰かに私が「自分はあなたと同じだ」といえば、 きっとその人はくるっと向きを変えて、 「目が見えないのだから同じではない」というでしょうね。 それは、死ぬまで一生私について回ります。 でもよかったのは、失明した頃、子供がいたことです。 最初の子供で、2ヶ月の娘でした。 私はおしめを取り替えたり、ミルクをやったりして世話をしました。 何かもやりました。 それで結局、8人の子持ちになりました。 子供たちは私の生活を満たしてくれました。 「お父さんは目が見えないから、お父さんに食べさせてもらうのはイヤ」 なんて決していいませんでした。 子供たちは私のあるがままを受け入れ、 任せてくれ、忙しくさせてくれました。 自分自身を受け入れてくれる世界にいたから、 楽しかったです。 |
立花 | ミルクはどうやって与えたのですか? |
ナウマン | 小指を使って口を見つけました。 それから、小指のところにほ乳瓶の口を合わせて、 押し入れるだけです。 |
立花 | それで問題はなかった? |
ナウマン | ありません。 お腹が減っていれば、自分からほ乳瓶の口を探しますから。 |
立花 | ははは。 しかし小さい子供は、 盲目では難しいことがたくさんありませんか? |
ナウマン | いいえ、ありません。 |
立花 | ない? |
ナウマン | 外出する際、私が呼んだら必ず返事をするように子供たちに教えました。 それで、誰がどこにいるかわかりました。 難しいことではありません。 もちろん、子育てというのは、見えようが見えまいが大変です。 つまり、私がいいたいのは、 子育てが大変だといってもそれ以上ではない、 ということです。 辛かったのは、子供たちが歩き始める姿を見て楽しめなかったことです。 おわかりでしょう、 子供がはじめて立って歩く姿を見られなかったのは、 悲しかった。 |
立花 | よくわかりますよ。 |
ナウマン | 悲しかったです。 いま、家に帰ってくる子供たちはみな青年、若い娘になりました。 やはり顔が見たいのです。 辛いです。 赤ん坊の頃は、触れれば全体像をイメージできますから楽しかった。 ですから手が目の代わりになって、 彼らが小さい頃のイメージはたくさんありますが、 成長して触れられなくなってからの彼らのイメージはありません。 |
立花 | お子さんが8人もいるのですね。 |
ナウマン | ええ。 最初の娘はいま21歳です。 その下に20歳の息子、18歳の娘がいて、 その下に5人の息子がいます。 |
立花 | 大家族ですね。 |
ナウマン | そうです。 妻は上の2人を病院で出産しましたが、 下の6人は私が医者代わりで自宅で出産しました。 |
立花 | ほんとうに? |
ナウマン | ええ、この経験は妻と私を近づけ、 お互いの理解が一層深まりました。 よかったと思っています。 |
立花 | ピアノの調律と修理で生活はできましたか? |
ナウマン | 他のこともいろいろしました。 独学でトラクターの運転を習いました。 敷地の中でトラクターや自動車を運転する方法を考案したんです。 畑の間に金属ワイヤーをわたして、 それに沿って畑を行ったり来たりするのです。 ワイヤーに近づきすぎると、 棒でその位置を確認して、 ハンドルを操作するのです。 とても簡単です。 私は、干し草を作って売りました。 私たちの食べ物はすべてこの農場と畑から得たものです。 |
子供の顔が見たかった
立花 | ドーベル研究所と人工眼についてどうやって情報を集めましたか? |
ナウマン | すべてインターネットで知りました。 http://www.artificialvision.com (注:現在は存在しません) というサイトですべてわかりました。 友人が見つけて電話で教えてくれました。 それから、隣人のところで調べて、ドーベル研に申し込んだのです。 おそらく私が受け入れられたのは 「お金はある」といったからでしょう。 その重要性をまったく知らずにそんなことをいってしまいました。 |
立花 | 幾ら払ったんですか? |
ナウマン | 米ドルで8万ドルでした。 |
立花 | 8万ドル! |
ナウマン | 当時カナダドルはとても弱かったので、 13万ドルかかりました。 この家よりも高かったのです。 この不動産は12万3千ドルでしたから、 家を担保にして大金を銀行から借りました。 それから教会でピアノを弾いて募金を募りました。 募金で4万ドル集めました。 施しを乞うようでとてもイヤでした。 でも、これで見えるようになるんだと思ったから何とか募金を集めました。 人の顔が認識できるようになると、ドーベル医師は言っていました。 私は子供の顔が見たかったのです。 ドーベル医師はさらに、 おそらく運転免許は取れないけど、これで行動範囲が広がるだろう、 と言いました。 そして、先ほど立花さんに読んでもらったように、 ドーベル医師は手術は簡単で日帰りできると言っていました。 医者が言うんだから、私は信じました。 だって、そうでしょう? |
準備中