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7 引用・ウィトゲンシュタイン

瀬名前半で触れたように、言葉が僕らの思考を規定していくという考え方のお話もお伺いしたいんです。『イノセンス』でも、例えばバトーとか、トグサとかが、色々な引用をするじゃないですか。ああいう引用をするというようなことで、彼らは思考を表現しているし、制約もされているわけだと思うんですけど、その言葉と心の関係みたいなものを議論できるといいかなと思います。映像があるので、それを流していただいたほうがいいでしょう。

映画「イノセンス」より、択捉島上空でバトーとトグサが話しているシーン。

バトー:地球型経済都市として建設され、栄華を極めた択捉経済特区、そのなれのはてが、この巨大な卒塔婆の群れだ。国家主権があいまいなことに漬け込まれて、今じゃ多国籍企業やそのおこぼれに与る犯罪企業の巣窟。国連のネットポリスやASEANの電警も手が出せない無法地帯になっちまった。個体が作り上げたものもまた、その個体と同様に遺伝子の表現形だって言葉を思い出すな。

トグサ:それってビーバーのダムや、クモの巣の話だろ

バトー:珊瑚虫の生み出すサンゴ礁といってほしいな。ま、それほど美しくはねえが。生命の本質が遺伝子を介して伝播する情報だとすると、社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならないし、都市が巨大な外部記憶装置ってわけだ。

トグサ:その思念の数はいかに多きかな。われこれを数えんとすれども、その数は砂よりも多し

バトー:旧約聖書詩篇の139節か。とっさにそんな言葉を検索するようじゃあ、お前の外部記憶装置の表現形もちょっと偏向してるな。

トグサ:あんたに言われたかねえよな。

瀬名ビーバーのダムの話が出てきましたけど、まさにこれはリチャード・ドーキンスの言っていた「延長された表現型」で、どこまで遺伝子が表現を延長していくか、どこまであやつっているかという問題。それで彼らが、結局今話している中で、旧約聖書の引用をするわけじゃないですか。こういう未来社会が、どういうコミュニケーションを実現するのか、いろいろ考えてるんですけど、いまいち「こうだ」というものは僕自身の中にはないんです。是非櫻井さんのご意見を聞きたいんですが、たとえば僕が思うのは、彼らは引用していて、電脳世界に繋がっているから、なにかを表現したいんだけど巧く言えないから、検索して、引用しているわけですよね。だから自分の言葉で言うよりも、何か昔の言葉を引用してきたほうが、自分の気持ちに合った話ができると思って喋っているわけですよね。
櫻井そういうことですね。
瀬名でも、旧約聖書にせよなんにせよ、「イノセンス」の中にはかなり引用がでてきますけど、たぶん現代を生きている一般の視聴者はほとんどこういうものに馴染みがないので、何を言っているのかよくわからないと思うんですね。ここで引用しているのは全部、押井さんが昔読まれた本の中にあって、何かメモをしていたとかいうようなお話を伺っています。だから押井さんの中ではこれは意味がわかっているし、どういうつもりで喋っているかわかっている。だからバトーもトグサもわかっている。だけど傍から聞いている人にはよくわからない。この電脳世界だったら、誰かが引用したら、例えばバトーもまたその引用を検索して、まあこういうことを言っているんだなって了解しているのか、それとも引用はしていて言葉の表面上はわかっているんだけど、相手の言っていることはよくわからなくて、コミュニケーションが終わることもあるのかという問題があるんじゃないでしょうか。この場面ではバトーもすかさず検索しているようですが。つまり、言葉はわかるんだけど、なんのつもりでそれを引用しているのかという、話し手側の意図というのはどこまで伝わっているものなのかな、ということが「イノセンス」を観たときの疑問だったんです。
櫻井なるほど。先ほど、フランシーヌがアリスを引用するみたいなところと、ちょっと似た部分はあるかもしれないですね。基本的にはこのバトーとトグサのくだりを見る限りでは、お互いには通じていますよね。
瀬名でも、漢詩が出てくるシーンがありますよね。あれは、トグサもわかってないわけですよね。
櫻井そうですね、おそらくわかってないんだと思いますね。これはどっちだと言えばいいのかな。あとで帰って押井監督にすごく怒られたりしたらどうしよう(笑)。でもおそらく、検索をして引っかかりさえすれば、わかってしまうはずですよね
瀬名例えば僕らは海外のミステリーなどを読んでいると、シェイクスピアとかからストーリーを象徴するような引用文がそこに入っていたりするんだけど、日本人のほとんどはそういうのに馴染みがなかったりするから、どうしてこういう引用が使われているのかよくわからない。つまりテーマを象徴しているんだということ自体がわからないという場合がある。だから、「イノセンス」におけるコミュニケーションの中での引用と意図というものが、すごく不思議だと思います。彼らはなにか話したいことがあるけど、上手く言えないから言葉を引用するわけですよね。ひょっとしたら旧約聖書の言葉は、トグサにとって完全にフィットした言葉ではないかもしれない。そのときの気持ちと。でもいいや、これで引用しちゃえ、という風に引用して、概ねは伝わるんだけれど、ちょっとしたところがひょっとしたら伝わらない可能性だってあるわけですよね。だから、先ほどのオングの話のつながりで、言葉が視えてしまうことがあって、その規定されるところがあるという話だけれど、こういう世界ではなくて引用されるものによってまた私たちの感情や思考のようなものが、ある程度そこに集約されていくような感覚というものがあるのかなあと思いますね。
櫻井なるほど、それはそうかもしれませんね。例えば僕らが今自分たちの拙い言葉で話さざるを得ないのは外部記憶装置がないからだけれど、それが作品の中では膨大な外部記憶装置が後ろに繋がった状態なんですからね。人工回路の研究では外部記憶装置的なことも、既に研究がはじまっているんですよね。
瀬名そうですね、立花隆さんのプレミアム10とかでも出てきましたよね。
櫻井一応立花ゼミの企画ですからね。
瀬名立花隆ゼミだということを今再確認してみました(笑)。
櫻井何かそういう外部記憶装置みたいなものが、まあ今はまだラットの段階だし、まだ上手くいってすらいないのかもしれないけど、これから先に出てきたとして、そういうことが可能になったときに、例えば僕らがオリジナルの言葉でしゃべり続けることに意味があるのだろうかという問題が出てきますよね。膨大な文から自由に引用できるようになったときには、そちらにかなり引っ張られるという可能性は、かなりあるような気がします。僕らが今拙い言葉でしゃべっているのは思い出せないからだけであって、「彼はこんなことを言っていたんです」といったことを言うのも、正確に引用できれば、もしかしたらまた違うような気がします。
瀬名今は外部記憶装置としての紙があって、引用もしていますけど、それがどんどんできるようになった時に、どういう感覚をどの言葉に当てはめるのかというのは、記憶装置が後ろにあったとしても上手く検索しないといけないし、何を選択するかというのも、人によって違うわけですよね。たぶん記憶装置というものは、例えば聖書に親しんだ人だったら聖書から引くとか、シェイクスピアを研究した人だったらシェイクスピアから引用しやすいとか、つまり彼の人生のバックグラウンドと、外部記憶装置っていうのが、実は表裏一体なところがある。でも、何かを検索したらすぐに結果がでてきて、「あなたの今の気持ちに近いのはなんとかっていう人のなんとかっていう作品です」とでてくる可能性だってあるわけです。それは全然その人の人生と関係ない気持ちが、くっついてしまう可能性だってあるわけですよね。
櫻井どうなんでしょうね。彼ら(バトーとトグサ)の場合は引用してきたときには一応一通り読んでいるのかな、という感じはしますね。
瀬名ここではそうですね。だって、フランシーヌがどうのって言い始めるのも、わかっているからですもんね。
櫻井そうですね。
瀬名でも、この世界観の中で同じような人がたくさんいたときにどういう会話をしているのかということについては、非常に不思議な感じです。あとですね、我々が普段しゃべっているときにルールを少しずつ変えていく感覚がありますよね。少し古いですが1940年代のシャノンとウィーバーのコミュニケーションモデルを考えてみますと、情報の伝達のコミュニケーションには送り手と受け手がいて、情報を伝達するために送信機と受信機を通して通信するわけですが、当時はその間にすごくノイズが入ったので、このノイズをどうやって減らそうかというのを彼らは考えたわけです。ただ、今はノイズの重要性が薄れてきて、むしろ暗号化と復号化のしくみに関心が持たれるようになってきた。つまりシャノンのモデルではエンコーディングとデコーディングが完璧に行われるという前提に立っているけれど、普通の日常のなかでの僕たちの会話を考えると、ノイズも当然重要だけれど、実はエンコーディングとデコーディングのルールをどういう風に判断するかということがすごく重要で、僕らはそれを完璧にやっているんだと思っているんだけど実はそうではなくて、お互いの気持ちを探りながら、「いまどういう風にデコードすればいいんだろう」とか、「相手は何のつもりでこういう話をしているんだろう」とか、ルールをお互いに修正しながら話しているというようなところがあって、そういうことが今後の人工知能の世界の中にどういう風に関わっていくのかというのも、「イノセンス」の世界観を含めて面白いところかなと。
櫻井コンテクスト(文脈)をどう読むかという問題ですよね。
瀬名そうですね。
櫻井ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』の中で「石板!」という言葉を例にして、それがどういうことを意味し得るかっていうことを詳しく考察しています。例えば戦場で言ったら「石板を取って来い」という意味になるんだけれども、なぜ「石板!」で「石板を取って来い」を意味できるのか。あるいは「石板!」で「石板」のことだけを意味してはいけないのか。つまりこれは、コンテクストに応じてデコーディングのルールが変わっているんですね。
ウィトゲンシュタインは著作の中で、プレイというものがどうしてもルールに先行してしまうのではないかということを書いています。普通はルールが先にあって、その中でプレイをしていると考えがちであるけれども、「石板!」っていうプレイを行なったときに、戦場であれば「あっ、石板持ってくってことね」という風に、石板を持ってくるっていうころが事後的に了解されているわけで、ルールというのはプレイが行なわれたときに事後的に見出されざるを得ないというわけです。瀬名さんの指摘どおり、シャノンやウィーバーは数学者だし、彼らのモデルは工学的なもので、エンコードとデコードには何のリスクも伴わないことを設定して、妨害者の仕事しか考えていないけれども、そもそもルールというものを我々が共有していると思うことも幻想なんじゃないか、という発想なわけですね。
クリプキが『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の中で面白いことを言っていて、「58+62」と考えるときに一般的には「120」と答えるんだけども、悲観的な懐疑論者っていうのはここで「5」というんだそうです。それはどういうことかというと、懐疑論者は「あなたは今足し算(addition)をやっていると思ってましたね。だけど、実はあなたが今やっていたことはクアディションなんですよ。アディションというのは57以下の数字については成立しているけど、58以降は全部答えは5になる。それが本当のアディションなんですよ」というわけです。もちろんこのレベルで話している分にはおかしいことがわかるんだけど、数字というのは無限にあるわけじゃないですか。そうするとこの57を一億にしてもいいし、何兆にしてもいいし、いままでの歴史の中で人間がやったことのある加算というのは有限回なわけじゃないですか。そうすると、その有限回までを取って、それ以降のルールを「それ以降の数については5である」としていたとしても、表面上は矛盾が起きてこないんです。
瀬名問題はなく、普通に暮らせますね。
櫻井そう。普通に暮らせるけども、アディションとクアディションという別々のルールに従ってるっていう状況も想定できますよねというのが、クリプキの話です。ここでは数学を例にとっていますが、一般的に考えたとしても、変な話ですけどこの懐疑論者に反論して、説得させることがなかなか難しいんです。例えば僕らは言語ゲーム、ウィトゲンシュタインは言語についてやっているけれども、クリプキはそれをわかりやすくするために数学を使って説明している。ウィトゲンシュタインは言語というものに対して、僕らは一般的なルールを共有しているって思っているけれど、クリプキが挙げた懐疑論者のように、いままで共通して理解している部分についてはそうですけど、そうではない部分に対しては、また違うルールが適用されていることも想定できますよね。だとしたらやっぱり、いかなるプレイの仕方もルールに従わせることができるのかっていうことを言っているのではないでしょうか。
瀬名はい。
櫻井それがプレイがルールに先行するっていうことだと思うんです。ただ僕らがそれを共有できていると思える根拠というものは実はなくて、それを無根拠にジャンプするしかないんです。
瀬名そこでね、イノセンス(無垢)ということと、社会がつながるのかなあと。「イノセンス」は、若干ネタをバラすことになりますが、子供が結局いろいろな事件に深く関わっていたというストーリーで、それをもって「イノセンス」というタイトルになっているんだと思いますが、子供は社会性を持っていないということは先ほどハラウェイさんの話にも出てきましたね。つまり私たちが「足し算はずっとやっていてもずっといつまでも同じようにできるんだよ」という風に思ってしまうのは、我々の社会的知能(social intelligence)があるからだと思うんですけど、それは僕らが暮らしの中でだんだん学習していって、こういう風に考えればいいんだなと横着をする、というか、楽をするようになるんです。つまり知能がオートメート化するということで、こういうときはこういう風になっていけばなんかいつでも同じようなルールでできるだろうと、ルールがわかってくると自分の中でそれを体得して、それは社会性を体得することにもなるわけですが、換言すればそれは関係性を最適にするように横着するということですよね。それはひょっとしたら自動化ということになるかもしれない。全部のことは考えずに、ちょっとしたことを考えればよくて、子供は社会性が体得されていないから、それができないんじゃないかという話をハラウェイさんはしている。
櫻井そうですね。
瀬名だから、「イノセンス」の映画の一つの対立というのが「社会性を持つ大人たち」と「そうではない子供たち」の自我の関係だと思うんですが、クリプキは子供のことについてなにか言ってないんですか?
櫻井子供については書いていなかったと思いますね。
瀬名ウィトゲンシュタインの研究者の永井均さんは子供についての哲学の本を書いているし、子供向けの哲学の本も書いていますよね。「イノセンス」の無垢というのは、コミュニケーションのある種の自動化みたいなものがないような状況のことにもつながっているのかなって。その魂の無垢さみたいなものを、「イノセンス」を観ながらいろいろ考えるんです。その辺について櫻井さんはどう思われますか?
櫻井永井均さんが子供向けの本を書いているというのはすごく面白いですね。永井均さんがウィトゲンシュタイン研究者であることと、永井均さんが子供向けの本を書いているということは無関係じゃないような気がします。要するに、子供のようなルールを共有していない人たちに向かって発話したいんじゃないかなと思いました。もしかしたらクリプキも子供について書いているのかもしれません。

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