5 記述し得ないもの
瀬名 | ギルバート・ライルの本が出たのが1949年、コンピュータがそろそろ一般の人たちにも脅威の存在として受け入れられつつある、万能のマシンが遂にできたぞというような、これで支配されちゃうかも、という感じになってきた頃ですよね。 |
櫻井 | 全てが記述可能になりそうだな、という気配がある時に、電気的なパルスに人間を還元させないように、何か特殊な絶対領域みたいなものを求めてしまうという、心理的な要請みたいなものがあるのじゃないか、って気がするんですね。先ほど裏で話しているときに、瀬名さんは大澤真幸の「恋愛の不可能性について」を意識して「第九の日」を書いたという話がでたのですが…。 |
瀬名 | 「第九の日」っていうのはケンイチ君シリーズの最新刊です。 |
櫻井 | 「恋愛の不可能性について」を書いた大澤真幸というのは、一時期東大にいて、僕が大学1年の時に、もう10年くらい前になりますかね、講義をもっていた方で。 |
瀬名 | 直接東京大学で教えてもらってたんですね。 |
櫻井 | 金曜5限で誰も授業に出て無かったのですけど。 |
瀬名 | (笑) |
櫻井 | それでちょっと脇道に逸れますが、クリプキという人の書いた「Naming and Necessity」という本があるんです。要素を全て書き出していった時に、それに還元し得ないものがある部分に、ネーミングというもののネセシティー(必要性)がある、みたいな感じの本なのですね。つまり、ある特定の人物に、例えば、瀬名秀明というネーミングがあった時に、もちろんネーミングも記号ではあるんですけれども、「パラサイト・イヴ」という本を書いていらっしゃる、ケンイチシリーズを書いていらっしゃる、東北大学の特任教授である、そういう要素を全部列記していった時に、例えば小説を書いていらっしゃらなくても、瀬名さんは瀬名さんであろうという感覚が僕らにはある。特認教授ではなかったとしても瀬名さんは瀬名さんであろうという感覚がある。それらを全て記述していっても最終的には何か記述し得ないものが残ってしまうのではないかという感覚がある。 |
瀬名 | リストにしていっても書き下せないような何かっていうことですね。 |
櫻井 | そうですね、「恋愛の不可能性について」はそれを援用して書いていて、「この人が好きだ」っていうときに、このなぜ好きか、よく彼氏彼女同士の間で「私のどこが好き?」とか言ったりしますけど、それを全て記述していったときに、じゃあその条件を満たしている他の子だったらやっぱり好きになってしまうんじゃないのかというような。R.Dレインも「好き好き大好き」という本の中で似たようなことを書いていますけれども、つまり、全てを記述していって、それに合致する別の人でもいいかっていうと、それは違うんじゃないかという。その人じゃなきゃだめなんじゃないかなって言う感覚がある。そこの部分がゴーストなんじゃないかって。 |
瀬名 | なるほど。 |
櫻井 | 全部記述していった時になおかつ記述しえないものとして指示されるところのものがゴーストである。だから、否定的な定義なのですよね。それに関連して、僕は瀬名さんの書いていらっしゃる「第九の日」の中ですごく面白かった一節があって、知能っていうものを定義するくだりで、「今は、自然に対応できることが最高の知性とされている。でも知能というのは青い鳥で、現実でできないもののことだ」と。つまり、実現できた技術は過小評価されるから、チェスっていうものが良い例で、一時期IBMが… |
瀬名 | ディープ・ブルーですね。 |
櫻井 | ディープ・ブルーを開発して、必死にチェスの世界チャンピオンを破ろうと躍起になった時代があると。これはデカルトの密室の中でもすごく丁寧にかかれていますけれども。結局カスパロフっていう当時の世界チャンピオンを破って、 |
瀬名 | 97年ですね。 |
櫻井 | 97年ですか。その時に、じゃあこれからどんどんチェスの人工知能の開発が進むかっていうとそうじゃなくて、世界チャンピオンに勝てたからいいや、チェスなんかできることは人間の知能の全てなんかでは全然ないんだ、っていうような空気になった。実現された途端に、それは違うよねっていうような空気になる感覚がある。 |
瀬名 | それでまた別の知能を求めて、最近は身体知だとかいって、身体と環境との絡みの知能の方が重要なのだとか、どんどん学習していく知能の方が実はかっこいいのだといった話になっている。でもやはり青い鳥なんだという。つまり、知能の研究をしていくと、どんどん色々なものが達成されていくのだけれど、達成された時点でもうそれは良い知能、優れた知能だと思われなくなってしまい、次の知能をまた探さなければいけない。だんだんそうするうちに結局我々は、自分自身の普通の生活の中の知能に帰っていっちゃう。 |
櫻井 | 恐らくでもまたそれも先がありますよね。これから日常的なことがどんどん評価されて、今は身体性っていうものが注目されていますけど。青い鳥であり続けるということですよね。 |
瀬名 | その時代その時代によって何を知能と呼ぶかって言うのはかなり違っていて、その時代の青い鳥っていうのがある。 先ほどライルの話と「イノセンス」の話をつなげようと思うのですけど、ギルバート・ライルの本は、最初にやっぱりデカルト否定から始まるわけですよね。デカルトの時代っていうのは人間機械論みたいなのが勃興して、機械そっくりの人間解剖図が書かれたりして、人間の体は機械であるというような考え方が先進的だと思われた時代なんです。そんな時代にデカルトは、人間は機械かもしれないけど、本当に人間であることの根拠ってなんなのだろうってことをずっと考えた末、結局心だ、それは神様が与えてくれたものだということで、心身二元論に組み込んだ。僕らもこういう風に話をしている時に、相手の心、つまりゴーストを人間らしさの根拠として見出してしまう。でもギルバート・ライルは、それは違うという話をしていて、相手が人間らしく振舞っているなら振舞っているそのものが結局心であって、その人なのであるのだと。その中に根拠というものを求めてしまう私達は結局、どこまでが機械でどこからが機械じゃないものか、どこまでが記述されるものでどこからが記述されないものであるかという風に境界を作ってしまう、そういう感覚に捉われてしまっているだけなのだと。「イノセンス」の世界観の中で、彼らはゴーストをどのくらいのものとして捉えているのか、先ほど先天的なものだという話がありましたけれども、場合によっては大きかったり小さかったりね、その時々によって感覚というのは違うかもしれない。私達もタチコマの「STAND ALONE COMPLEX」にしてもね、タチコマを観る時に、心があるように見えちゃうわけですね。あの三角の目が感情移入を促すようになっているじゃないですか。 |
櫻井 | チョコチョコとアイボールが動くところですね。 |
瀬名 | 視点をキョロキョロさせているような感じなので、心があるように見えてしまう。逆にバトーは目がレンズになっているので、心を閉ざしているように思えてしまう。多分あれは、「イノセンス」の中でも押井さんが計算して効果的に使っているのだと思うんですけど。どういう表象の中でそのゴーストを感じ取るかっていうのは結構おもしろい話だと思うんです。 |
櫻井 | 廣松渉っていう人の、 |
瀬名 | 哲学者の人ですね。 |
櫻井 | 「世界の共同主観的存在構造」という本があって、その中で人形使いのことを書いているとしか思えない部分があって。 |
瀬名 | 僕はその本は読んでいないのですけれども。 |
櫻井 | すごく関連した内容なんですけれど…どういうことを言っているかというと…あ、引用が見つからない。あれ、確かこのあたりに… |
瀬名 | これで休憩にしましょうか。次はコミュニケーションの話、さっきのオングとかその辺をやることにしましょう。 |
司会 | それでは、休憩を15分ほどとります。 |
準備中